「……何だかなあ」
バスタブに張った湯に浸り、手足の揉み解しながら朱里は独りごちる。
既に寛ぎ慣れたバスルームには、買い物に出た時に朱里が香りが好きだと云ったボディソープやシャンプー・リンス等まで揃えられ、甘やかされているのかコレは。そう思い倦ねる事も度々だ。
朱里が悠介の部屋に住むようになってから二週間が経つ。
朝食を取った悠介が出かけてから部屋を掃除し、確実に悠介が帰らないだろう昼間のうちに入浴を済ませる。 さすがに悠介がいる時間に入浴は避けた方が無難だと考えたのだが、昼間の入浴は思ったよりも心地よい。満喫して夕飯を作るという毎日だ。
こんな優雅に生活していい筈がないのに。そう朱里自身焦りもする。
悠介に食費だけでも渡そうと思ったのだが、頑として受け取ってくれない。収入はなくとも、貯金がある。そう朱里は云ったが、悠介は笑って首を振る。
確かに貯金はあるとは云えそれは無限ではない。逮捕されたのが月初め。その月の給料などたかが知れていた。それから四ヶ月間収入がある筈もないのに引き落としにしてあった支払いだけは続いていたのだ。
四ヶ月で助かった。記帳した通帳を見た朱里はそう呟いたものだった。
ローンは数える程だが、やはり支払いと生活費を稼ぐ手立ては早く考えなくては。
「取り敢えず、先立つものを貯めるのが先かなあ」
赤の他人に頼るのも、何時までもという訳にはいかない。
住み込みのバイトでも良いと考えていたが、せっかくこの環境にあるのだからアパートを借りて必要品を買い揃えるくらいの金は用意してしまいたい。
「となると、やっぱり昼のバイトよりは夜か……」
朱里は現在二十二歳、まだ繁華街で働くにしろ店を選ぶ事は出来るだろう。もとより派手に稼ごうと思う性格ではない。昼間よりはちょっと良い時給、という辺りを探そうかと考えている。
以前職場に内緒でスナックのバイトをした事もある。経験者と云えば色も付くだろう。
今見ている求人誌から決めてしまおう、と朱里は立ち上がる。
手早くバスルームの掃除をして一度シャワーを浴びて体を拭く。
悠介が帰って来ないだろうとは思うが、バスルームを出る時にはしっかり服を着込むのは習慣のようになっていた。
「……どちら様でしょう」
バスルームを出てキッチンを横切った朱里は、びくりと足を止めた。
ソファでテーブルの上に置き去りにしていた求人誌をパラパラと捲っていた男が顔を上げる。
誰もいないと思っていたのだ。しかも、知らない顔。
否、悠介の家を訪ねて来ているのだから、朱里が知らなくても問題はない。鍵は掛かっていた筈なのだから、鍵を持っているか悠介から借りられる人物なのかもしれない。
慌しくそう考えた朱里の誰何の声に、男はにやりと笑う。
大柄なのがソファに座っていても分かる。悠介と同様、着ているスーツは上質なものだ。
蜂蜜色の髪は後ろに撫でつけられている。
驚いたのはその顔だった。日本人離れしたそれは、モデルか芸能人ではないかと思う程に整っている。その上朱里を見る瞳は黒ではなく青碧色で、本当に日本人ではないかもしれないとまで思う。
「怪しまなくていい。悠介の従兄弟だ」
少し低めのハスキーな声。日本語だった事に朱里はほっと息をつく。
だが、長い足を組んで両手を軽く挙げる仕草が似合う日本人ってどうなんだろう。と内心突っ込まずにはいられない。
「……従兄弟」
「そ。よろしくな」
本当なのだろうか、朱里が反応に迷っていると男は手にしていた求人誌を軽く振った。
「仕事探し、目星はついてるのか?」
「……まあ、職種くらいは」
「この頁あたりか」
スナックの頁に折り目をつけておいたのを見たのだろう、幾つか丸印で囲ってもある。
男が更に何か云おうと口を開いた時、玄関が派手な音をたてて開いた。
「遥人!」
「……悠介、さん?」
悠介が肩を怒らせて入って来るのを男 遥人は平然と見ている。
二人を見比べる朱里は呆然とするしかない。
「遅い。もう挨拶済みだ」
遥人の言葉にがくりと肩を落とした悠介は、朱里を見て申し訳なさそうに小さく笑った。
「驚いただろ、ごめん」
「……従兄弟って」
「うん。従兄弟の御堂遥人。見た目より普通だから、恐がらなくていいからね」
悠介の言い草に、朱里は思わず笑いを漏らす。
確かに、遥人は威圧感のある男だった。
「それは俺に失礼だろう」
「何云ってんだよ。大体書類を取りに戻るだけなんだから、遥人まで車から降りなくたっていいじゃないか」
「降りたっていいだろ」
「……会いたかっただけだろ」
顔を顰めた悠介に、遥人は眉を上げてにやりと笑う。
当然、悠介が拾った迷い猫とやらを見に来たのだ。
「ほら、早く書類を取って来い」
ひらひらと片手を追い払うように動かされ、悠介は溜め息をついて自室へと入って行く。
「……これ、預かってもいいか」
「はい?」
遥人の手にはまだ求人誌がある。
「最近悠介の色艶が良くってな。栄養潤ってるのは、あんたのおかげだろ」
唐突に話が変わったのかと驚いたが、云われているのは食事の事だろう。朱里は微笑を浮かべる遥人に視線を奪われながら頷いた。朱里が食事を作るようになってから疲れにくくなったと、悠介にも云われている。
「その礼。二、三日待ってろ」
「……何?」
「決まりました、怪しい店でした。じゃあ堪らんだろ」
「は?」
「悠介が安心していられる店を見繕ってやる」
話は終わったとばかりに遥人は立ち上がると玄関へと向かう。立ち上がった遥人は悠介より背が高く、広い肩幅といい座っている時より更に威風堂々とした体(てい)である。
呆然と見送る朱里の視線の先で、遥人は途中悠介の部屋を覗くと丁度出て来た悠介を急かしていた。
「じゃあ、行って来ますっ」
時間がなかったらしく慌しく二人揃って出て行く。
遥人の態度はあまりにも悠然としていたが、その二人の違いに朱里は閉まったドアを見て笑いを堪え切れなかった。