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 暗黙の了解、という言葉がある。
 『口にせずともされる了解、またはその内容のこと。』
 思わず引いてしまった辞書を閉じて朱里は溜め息をつく。
 いい大人ならば誰でも知っている事だというのに。




「使っていた薬が違法か合法かは知っていた?」

 朱里の担当となったのは職場までやって来た麻薬取締官の一人、温和そうな中年で山崎と名乗った。
 厳つい若い方ではなかった事に朱里はほっとしていた。最初から朱里を利之の共犯として扱った若い男とは違い、山崎は本音はどうあれ朱里の言い分は一通り聞いてくれていた。

「最初は合法だって聞いてました。でも、規制されるって」
「じゃあ、規制されたのを聞いて知っていたんだね」
「これからは流通しなくなるって聞いたし、規制された物なんて手に入らないんじゃないですか?」
「入るよ」

 六畳ほどの無機質な部屋。事務机と椅子しかないそこであっさりと云われて絶句する。

「どうやって? 大体、普通そう聞いたらもう使わないって思うでしょ?」
「……じゃあ、はっきり違うものだと聞いた訳じゃないんだね?」
「聞いてません。でも、まさかそのまま使うなんて」

 確かに云われた通り、朱里は利之にそれまでとは違う物だと言葉で聞いた覚えはなかった。それでも、違う物だと思い込んでいた。

「じゃあ、何で違うと思った? 色や形はどうだった」

 じりじりと詰められているような質問。目に見える形で同じ物だと感じたと云わせたいのが感じられる。

「色は」
「……同じ、白でした」
「形や見かけは」
「違うと……感じた事はなかった、です」
「じゃあ、何故違う物だと思えたんだ!」

 突然声を荒げられ、朱里は理不尽さに山崎を見る目を逸らす事を自分に拒否する。
 本当に、同じ物だと思った事は一度もなかった。
 家宅捜索された時から、まったく疑わずに「今は違う物の筈だ」と云っていた事を目の前の男は知っている筈だった。直接云ったのだし、躊躇せずに多少粉末の残っている空袋を渡したのだから。それなのに。

「確かに、言葉では云われませんでした。でも、他の薬なんて見た事がない私は、どの薬も似たような物だと思ったんです。使い続けるなんて、予想もしてませんでしたっ」

 激昂した山崎に負けじと強く云った言葉に、溜め息をついた山崎は穏やかさを取り戻したような声音を出した。

「いいか、悪い奴って云うのは当然分かっているだろう事は暗黙の了解で済ませるんだ。それはそういう事だったんじゃないのか?」

 またも朱里は言葉を失う。それが利之と自分の間にあったと決めつけられているならば、何を云っても無駄ではないか。
 少なくとも自分の常識の中の暗黙の了解にはそんな使い方はない。大体そんな事をどうやって証明すればいいのだ。説明しても端から信じようとしてない相手なのだ。自分の真実を知っているのは自分しかいないと云うのに。 




「……結局、利にとってはそういう共犯者だったんだよね、私は」

 ぽつりと出た言葉は微かに震えを帯びている。
 朱里も知っていて共に使ったと利之は供述したと山崎や検察官から聞いていた。

 そう云えば、「いつもの所で待ってる」などの分かり合っていると思って使った言葉はよく噛み合っていなかった。
 何度かそれで待ち合わせ場所を取り違えて苦労した覚えがある。
 朱里は途中でその傾向に気が付いてくどく確認するようになったが、利之はその取り違えが朱里の勘違いでの間違いだと思い込み続けていた。

 恋人だと思っていた。
 仕事でくたくたになっても部屋を訪れる彼が愛しかった。

 だが、今ではそれが他の女の所へ行った帰りだった事も知っているし、別居中と云っていた妻とは一緒に暮らしていて一度彼女にも薬を使った事がある事も知っている。
 
「滑稽だなあ」

 頬を滑り落ちる涙は、何に対して流れているのだろう。膝の上に落ちた雫を朱里はただ見つめる。

 セフレだと云われて泣いた。利之の事を思って泣いた。理不尽さに泣いた。
 そして、拘留期間が延ばされる度、とにかく認めれば前科は付くが初犯だから執行猶予のみで実刑にはならないと云われる度に、このままでは罪に落とされるという怖ろしさに泣いた。
 ……釈放されてから、泣く事は止めたというのに。

 朱里はサイドボードの上に乗ったカレンダーを見る。
 幾ら何でもそろそろ裁判が始まっているだろう。
 司法の事など何も知らないが、朱里自身が釈放されたのは利之の供述にも目処がたったからだろうと予想はしていた。
 しかし、まさか麻薬取締官に連絡して聞くわけにもいかない。

 山崎は携帯電話などの押収物の返却に事務所に行った朱里に自分の携帯番号を教えていた。

 「考えてみれば、君は最初からずっと知らないって云ってたんだよなあ」と呟いた彼の罪悪感からだろうか。

 それともいつもの事なのかは分からないが、「もっといかにもな悪女だったら良かったのに」と取調べ中に洩らした事がある彼の中にも葛藤があったのかもしれない。

 「罪を取り敢えず認めてしまえば早く片がつく」とも勧めた彼個人を恨むつもりは朱里にはなかった。

「考えても、しょうがないか」

 鼻をすすり、朱里は眦を拭うと立ち上がる。
 呆けている間にいつの間にか外は暗くなっている。もうすぐ悠介が帰って来ると云っていた時間だった。

 未だに事情を話していない彼には見せられない顔だと、苦笑まじりに吐息をついた。









 鰤の塩焼きに南瓜のそぼろ煮とプチトマトのマリネ。今夜も見る間に悠介の口の中へと消えて行く。ご飯と鶏ごぼうのすり身の味噌汁は既におかわり済みだ。作り置きの惣菜もどんどんと減っていく。明日にでもまた作ろうと思いつつ箸が止まった朱里を悠介は笑顔のまま見た。

「美味しいよ?」

 屈託のない笑顔につられて朱里の顔にも笑みが浮かぶ。
 
「もう食べ盛りって年でもないんでしょうけど、いい食べっぷりですよね」
「まあ、三十路を前にして育ち盛りは食べ盛りって訳はないでしょ」

 胡瓜の浅漬けをぽりぽりと噛みながら苦笑いをする悠介は、ん? と首を傾げる。朱里が眉根を寄せたのが不思議だったのだが、ああ、と呟いた。

「幾つに見えてた? 俺、二十九だよ」
「私と三、四歳くらい違うのかなーと…」
 実際予想と大きな違いがある訳ではないが、三十路という言葉には違和感がある。その肌艶の良さは何なのだと朱里は文句を飲み込んだ。

「ちなみにこの前来た遥人も同じ年」
「……彼も年齢不詳でしたけど」
「家系かな。ちなみに奴の兄弟も年齢不詳」

 二十九歳という事は、と朱里は唸る。自分の従兄と同じ年だ。目の前にある姿を見なければ、年相応な姿を想像出来るというものだ。

「……後何年かしたらメタボに気をつけなきゃならないお年頃じゃないですか。     献立見直そうかな」
「鍛えてるから大丈夫」

 云い切りながら悠介は箸を置くと手を合わせた。

「ご馳走様。今日も美味しかった、有難う」
「お粗末様でした」
 食事を終えると悠介は必ず「美味しかった、有難う」と云う。その何気ない心遣いが嬉しい。朱里はにこっと笑うとお茶を淹れに立つ。

 その笑顔を見る悠介の顔も、また笑顔だった。
 この部屋に馴染むにつれ、朱里は本来の笑顔を見せるようになっていた。大きな瞳の朱里の笑みはふんわりと柔らかく、悠介の記憶に違わず心を温かくする。

「そう云えば、バイトはどう?」

 湯呑みを受け取った悠介の問いに皿を重ねていた朱里は顔を上げる。

 遥人がこの部屋にやって来た二日後、悠介から渡された求人誌の切り抜きの店で朱里は働き始めていた。

 夜働くという事に悠介は難色を示していたが、その店である事と終電帰りである事、週三回に止めておく事で納得したようだった。

 朱里にしてみれば悠介が難しい顔をする理由が不可解だったが、食事を作る事を条件に居候しているのだから仕方がないのかもしれない。そう思い、バイトのある日も食事の支度は必ずするようにしている。

「すごく良くしてもらってます。お客さんも良い人ばっかりだし」
「まあ、遥人のお墨付きだからね」
「お礼云っておいて下さいね」
「お礼、ねえ」

 含みのある云い方に表情を見ると、面白くないと顔に書いてある。朱里はくすくすと笑ってその頬を突付く。

「理解が欲しいところなんですけど?」
「……理解はある方だと自負しているんだけどね」

 それでも、心配なものは心配なのだ。

「俺の携帯の番号は教えたよね。何かあったらいつでも連絡して」
「心配性ですね」

 溜め息まじりの悠介に、朱里の笑みは益々深まる。
 ただの同居人だと云うのに、くすぐったい気遣いや会話が妙に嬉しかった。
 

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