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2-6

 月始めの土曜日、給料日後に月末の締め明け、加えて週末など、世間には色々飲む理由があるらしい。
 二つのボックス席と七つのカウンター席が僅かな時間の空きもなく次々と埋まっていくのを、朱里はその席の間を移動するタイミングを見ながら感心するように眺める。

 時間差で団体の予約が詰まっているが、他のバイトが掴まらないとバイト先のママから連絡を貰ったのは開店の一時間ほど前だった。
 土曜日に出勤した事はなかったが、特に予定のない朱里には勿論断る理由はない。
 ただ、今日は鍋にでもしようかと考えていたので夕食の支度をしていない。
 悠介にメールを入れるとその返事はメールの返信ではなく、電話でかかって来た。

『食事は別に構わないけど、忙しいなら遅くなるんじゃないの?』

 仕事中に申し訳ないと謝る朱里に対しての悠介の声は柔らかかった。

「かもしれないけど、タクシーで帰るから」
『……終わったら電話をくれる?』
「ん。じゃあ、タクシーに乗ったら」
『じゃなくて』

 溜め息まじりの遮りに朱里は言葉を止める。

『店を出る前に。丁度俺も近くに行く事になってるから、一緒に帰ろう』
「でも、何時になるか分からないし」
『なら尚更一人で帰ろうとか思わないでよ』

 また甘やかされている。そう思うと朱里の声は僅かに曇った。

「……悪いよ。大丈夫だから」
『本当に近くなんだよ。二人で乗った方がタクシー代も浮くだろ? 時間なら気にしなくていい。俺の行く店の方が遅くまでやってるから。たまにはゆっくり飲みたいしね』

 言い聞かせるような口調は柔らかいが、反論を聞く気がないのは明らかだ。
 朱里は相変わらずのさり気ない強引さに苦笑しながら、電話する事を約束して通話を終えた。





「ありがとうございましたー。おやすみなさい」

 エレベーターの前で馴染みの客が率いて来た団体を見送って朱里はにこやかに手を振る。
 既に午前二時をまわり、最後の団体客だった。
 店に残っているのはカウンターに座る常連ばかりだったが、彼等が帰るとなると何時になるやら。
 週末は朝までママと騒いでいるような客ばかりだ。

 初めて月曜日に出勤した時には目を剥いたものだ。
 店の中もシンクの中も、一体どれ程弾けたんだと聞きたくなる程の有様だった。
 そこまで酷い事はそれ以降あまりなかったが、土曜の夜は片付けが出来ない位ママも一緒になって飲む事だけは間違いない。

「アカリちゃん、上がっていいわよー」

 店に戻った朱里にママの陽気な声が掛かる。
 元々アルコールに弱くはない朱里も随分飲まされほろ酔いだったが、ママも既に酔っている。それでもどうやら朱里が朝まで付き合えない事だけは覚えていてくれたようだった。

「はあい。少しだけ片付けたら上がらせてもらいますね」
「いいからいいから。ハルからも催促の電話が来てるし、悠ちゃん待ってるんでしょ?」

 ハルとは遥人、悠ちゃんとは悠介の事らしい。
 遥人にこの店を紹介してもらったのでママが遥人の知り合いだとは聞いていたが、ここで悠介の名前を聞いたのは初めてだった。

「……悠ちゃん」

 意外な呼び方に思わず反芻してしまったのだが、ママは意味を違えて取ったらしい。にやにやと笑っている。

「悠ちゃんも、どうせならここまで迎えに来ればいいのにねえ」
「アカリちゃんの彼氏の話か?」

 話に加わって来たのは客の一人だった。
 「そうなのよー」などと無責任に笑うママを遮るように朱里は慌てて首を振る。

「ち、違いますよっ じゃあ、失礼しますね」

 酒の肴にされては敵わない。朱里はロッカーから鞄を掴み出すと挨拶もそこそこに店を飛び出した。

「……遥人さん、どんな説明してるんだか」

 ぶつぶつと云いながら鞄を探る。
 店を出る前に電話する、その約束はビルから出る前なら有効だろう。
 エレベータ前のスペースの壁に寄りかかって携帯を操ると、ワンコールも待たずに繋がった。

『朱里ちゃん、お疲れ』
「ごめんなさい、遅くなって」
『いいよ、気にしないで。そのまま七階まで上がって来られる? 一番奥の『lavatera』って店に居るから』
「エレベーターの前にいるから、すぐ行きます」
『待ってるよ』

 その言葉にくすぐったい気分でエレベーターの表示を見上げると、ランプは三階は過ぎて上へと向かっているところのようだった。
 近くに行くとは云ってはいたが、同じビルだとは思わなかった。驚かそうとでも思ったのだろうか。

 くすくすと漏れた笑いは、エレベータの横にある非常階段から現れた気配に唐突に消えた。

 朱里より僅かに高い背、固太りの男は朱里に気が付くとゆっくりと体を向ける。
 記憶と僅かにも変化のない姿に、朱里の目は見開かれていた。
 男の表情が笑みに変わる。
 これ以上ない程の、笑顔に。

     利」
「やっと見付けた、朱里」

 田沼利之だった。
 枯れたような特徴のある声に、朱里の心臓がドクンと跳ねる。

「何で…」 
「今日ここに朱里がいたって、聞いて来た」

 今日の客の中に、利之の知り合いがいたのか。
 健二に聞いた話を思い出し多少嫌悪を感じたが、それでも朱里は身動きが出来ずにいた。

 顔を見れば深い情を持っていた相手だ、自分がどう行動するか分からない。そう思っていた。
 もう切らなければ。利之がどんな男だったのか、自分をどう扱って来たのかは既に自分の中で真実として受け止められている。
 それでも、多少は本気も入っていたのではと思ってしまう自分もいるのだ。

 利之はゆっくりと朱里に近付く。

「……ごめん。辛い思いをさせた。もう逢いたくなかったか?」
「利……」
「それでも、逢いたかったんだ」

 伸びて来る腕を見ても、朱里の体は動かない。
 迎えるように手を伸ばす事も、拒否するように振り払う事も出来ず、瞠目したまま利之を見ている。

 利之の腕が朱里のそれを捕らえる。
 その感覚すら変わっていない。ごつく大きな、力強い手に体の裡が震える。

     朱里」
「そこまで」

 低く、響く声が利之の言葉を遮る。
 びくりと、朱里の体が竦むように反応した。

「腕を離してもらおうか」

 エレベーターホールに響く声。低めの声は威圧するかのような空気を孕んでいる。

 利之の体越しに視線を向けた朱里は、いつの間にか開いているエレベーターの扉が静かに閉まるのを見た。その前には背の高い男。

 白いシャツの襟元を寛げたGパン姿のその体は服の上からでも引き締まった筋肉に覆われているのが分かる。
 無造作に遊ばれた蜂蜜色の髪に精悍に整った顔、その青碧色の瞳が利之を強く捉えていた。 

「遥人さん……」

 朱里の呟きに遥人は口許をにやりと歪ませる。

「どうする? エレベーターならもう来ているが」

 エレベーターのランプは三階のままだった。
 遥人の指がボタンを押すと、扉はすぐに開く。

「行きます」
「……朱里」

 呼び声を避けるように利之の腕をすり抜けた朱里の肩を遥人は引き寄せると、利之を一瞥した。

「客か?」
「……いいえ」

 エレベーターが閉じる瞬間まで、利之は朱里を見続けていた。

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