Novels Top

2-7

 狭い箱の中で、朱里は深く抑えるように息をつく。

 いつか会わなくてはならないだろうとは思っていた。
 最初は本当の事や利之の気持ちを確かめる為に。
 信じたいという気持ちと、もう終わりだという気持ちがせめぎ合っていた。

 もう、想いは殆ど消えてしまったように感じていたというのに。
 僅かに残ったそれが顔を見る事でもたげたとしても、理性が勝つと思っていた。




 俯いたままの朱里の肩には遥人の手が掛かったままだった。
 声を掛ける事もなく、三十センチは優に上から見下ろす彼の目には朱里の表情は見えない。
 
 『朱里』と名を呼んだ男と、顔も体も強張らせた朱里。
 これが訳ありの正体なのだろうと察する事は出来た。
 
「……遥人さん、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」

 僅かに不安定さの残る声音に、遥人は微笑む。安心させるような笑みは、一度会ったスーツ姿の時の威圧感など微塵も感じさせない。
 存在感のある雰囲気は同じだったが、その表情は朱里の冷えた心を温かくするのに十分だった。

「いや。客を下まで送って行った帰り。戻りのエレベーターが勝手に三階で止まった」
「……客?」
「ああ。ほら、降りるぞ」

 七階でエレベーターの扉が開く。
 肩を抱かれたままの朱里は軽く押されるように歩き出した。
 
 三軒ある店の看板は既に灯りを落としている。そこを通り過ぎ一番奥、やはり看板が消えている店の扉を遥人は開けた。

 ボックス席が三つにカウンター。天井が高く、その分朱里が働く店より開放感を感じるバーだった。
 カウンターの中には大きな体の壮年の男、スツールには悠介が座っている。
 その背中を見た瞬間、自分の手の中で細い肩から力が抜けるのを感じて遥人は僅かに口許を緩めた。

「朱里ちゃん、お疲れ様」
「……遅くなりました」

 にこやかに振り返る悠介に、朱里は含羞(はにか)むように笑う。
 だが、返す悠介の眉間には見事な皺が寄っていた。

「遥人」
「おっと」

 何を云いたいのかはすぐに分かったらしい遥人は、大袈裟に朱里の肩から手を離す。
 
「……あ」

 肩を抱かれていた事を意識すらしていなかった朱里は、そこで気付いたように顔を赤らめた。
 自分には関係ないと思っていた筈の恐ろしい程のいい男にエスコートされていた事に、今更ながら動揺する。

「はいそこで赤くならない。朱里ちゃん、危ないから遥人に近付かないように。こいつかなり手が早いからね」
「……そりゃあ、悠介よりはよっぽど早いよな」

 朱里に手招きしながら威嚇する悠介に、遥人はにやにやと笑う。

「心配しなくても、俺は合意じゃなきゃ何もしねえよ」
「当たり前だよ」

 はいはい、と肩を竦めた遥人は、悠介の隣に座った朱里の顔を覗き込む。

「何飲む? アルコールでもノンアルコールでも、悠介の奢りだから好きなだけ飲めよ」

 まるで言外に先刻の事を洗い流せといわれているようで、朱里は悠介の顔をちらりと見る。その顔は柔らかく笑んでいて、安堵感を誘う。

「……強いの」

 呟く朱里に悠介の声が続く。

「遥人、ズブロッカ出せよ」

 癖のあるウォッカの指定に遥人が苦笑する。

「ウォッカが好きならスピリタスもあるぞ。カクテルか何か作るか?」
「……あれ九十六度だかあるだろ」
「酔いたいんだろ」

 青碧と黒、二対の瞳に見られて首を竦めた朱里だったが、朱里の好みとしては悠介の案だった。

「ズブロッカのロックがいいかな」
「了解」

 ニヤリと笑って遥人がカウンターの中に入ろうとする前に、朱里の前でカランと音がする。
 山のような大男が既に用意を始めていた。
 背も高いが筋肉質な体格に朱里は思わず見上げてしまう。Tシャツから出た腕は恐ろしく太い。

「朱里ちゃん、この熊みたいな人は敏郎さん。この人も怖くないからね」
「……悠介」

 腹に響くような太い声だったが、朱里を見る目は優しい。朱里は微笑み返し「横澤朱里です」と名乗る。
 横から出て来た遥人の手がレモンを見せたので頷くと、遥人はそれを絞ってからグラスを朱里の前に置いた。
 当然のようにカウンターの中に現れた遥人に、朱里の首が傾げられる。

「ここ、遥人の店なんだよ。敏郎さんはご隠居さん」
「ご隠居?」

 悠介の言葉を受けて敏郎を見上げた朱里に、彼は頷く。

「前はここを預かっていたんだ。今は偶にかり出されるくらいだが」
「おっさんが好きでカウンターに入るんだろ」
「この年で隠居扱いされて堪るか」
「楽させてやるって云ってんのに」
「まだ結構だ」
「老いては子に従えって知らねえの?」
「老いてねえ」

 遥人と敏郎の遣り取りに朱里は呆気に取られていたが、直にくすくすと笑い出す。
 遠慮のない言葉の応酬が心地よい。信頼関係が見えるようで、羨ましい程に温かい。

「仲良しですねー」

 素直な感想だったのだが、二人は揃って複雑そうな顔を見せ、悠介は朱里の隣で彼女の解れた笑顔を見て笑みを浮かべていた。  







「大丈夫?」

 タクシーの中で軽く息をついた朱里に、悠介が問う。

「ん。楽しかった」

 返事になっていないながらもにっこりと笑う朱里は希望通り酔えたようだった。

「……うん」
「何?」

 顔を覗き込まれて小首を傾げた朱里に悠介は微笑む。

「店に入って来た時変な顔してたから。戻ったみたいで安心した」
「……してた?」
「かなりね」

 隠し通したつもりだった事を指摘されて、朱里の握った拳が震える。
 口が何かを云おうとしたが、酔っている朱里にはそれが何か自分でも分からない。

「話したくなったらでいいよ」

 縋るような目で見上げられ、悠介は柔らかく笑う。
 朱里には事情があり、それを心を許し始めた自分に話そうか迷いながらも裡に閉じ込めているのは察していた。 
 また、自分が昔のような笑顔が見られればいいと思っていた事が、単なる過程でしかなかった事も。

 その事情が田沼という男が絡んでいるのならば、尚更朱里にとっては打ち明け難い事だろう。
 もしそれを聞いたなら、田沼から完全に隔離しようと朱里を閉じ込めかねない自分がいる。

 悠介は強く握られた朱里の拳にゆっくりと手を重ねる。
 今まで意識して触れた事はなかったが、安心させたい気持ちが勝った。
 拒まれはしまいかと様子を窺うが、朱里はじっと窓の外を見ている。

「……逢いに来たの」

 小さな呟きは無意識だろうか。目を細めた悠介のポケットで携帯が震えた。
 朱里の様子を気にしながら出た電話は遥人からだった。
 数言の言葉を交わしただけで通話を終えた事を訝しむように朱里が視線を向け、悠介は電話を切る寸前に浮かんだ険しい表情を消し笑みを浮かべる。

「遥人だよ。今日から出張の予定だったけど、月曜出発に延ばすって。今日はゆっくりしようか」
 
 田沼が会いに来ていたと告げる電話だった。
 遥人には詳しい事情をまだ話していなかったが、朱里の様子で察したのだろう。当たり障りのない事ならば敏郎から話しているかもしれない。

 一日休日をやるから、しっかり捕まえろ。そう云った従兄弟をお節介だとは笑えない。
 それだけ朱里が不安定だと、遥人の目から見ても明らかなのだろう。

 だが、強引に進めても朱里の傷口が広がるだけではないのか。
 体を利用した男に付けられた心の傷は、男の悠介には想像しか出来ない。
 だからこそ、安全な男のままでい続けているのだ。

 うとうととし始めた朱里の体をそっと引き寄せる。
 既に瞼が殆ど落ちている朱里は、されるがままに体を悠介の肩に預けた。

 握られた拳はいつの間にか解け、掌が上を向いている。
 その細い掌に自分の手を重ね、悠介はマンションに着くまで窓の外を流れる灯りをじっと眺めていた。

BACK TOP NEXT

inserted by FC2 system