喫茶店に入り紅茶だけを頼んだ朱里を見る武史の視線は険しい。
本当に食べたくないのだと告げるとここ数日の食事内容を聞かれる。
一日に一度スープしか食べていないので答えるのは簡単だが正直に云うのも憚られ、朱里は困ったように黙っていた。
まさか、叔父が会いに来るとは思っていなかった。
今再び駿と共にいる事を罵られるのは確実だろう。
朱里は、武史と交わした約束を覚えている。
覚えていて違えているのだから。
「叔父さん、ごめんなさい……」
俯きがちな言葉に武史は沈黙する。
丁度飲み物が運ばれ、ウェイトレスが立ち去るまでの沈黙。それを破ったのは武史だった。
「あのマンションは、駿が借りているんだね?」
俯くように頷く朱里に紅茶を飲むように促し、自らもコーヒーを口へ運ぶ。
五年前、二人の仲を裂いたのは武史だった。
その後朱里が唯一の親戚であるのにも関わらず、故意に音信を絶っているのも分かっていた。
最初は荒れていた駿も何時しか落ち着きを取り戻したと云うのに、全てが元に戻っている。
戻っているどころか、あの時怖れた状態が今目の前にある。
「朱里、五年前の事を覚えているかい」
カップを置きテーブルの上で両手の指を組むと、武史は朱里の顔を正面から見る。
五年前は家のダイニングテーブルだったが、やはりこうして向かい合った。
朱里が幼い頃から、駿は彼女を可愛がっていた。
妹のようにだろうと思っていたが、その愛情が家族愛ではない事に先に気付いたのは武史の姉、朱里の母だった。
年は離れているが弁えて大事にしてくれるならばいい。彼女は戸惑う武史に笑って云った。
武史自身姉への想いを男女のものかと悩んだ時期はあったので、駿が朱里に傾倒する気持ちも解らなくはない。
結局自分は重度のシスコンだったのだが、だからこそ姉の娘である朱里は可愛い。
莫迦な男に引っ掛かるなど、黙って見ていられる筈がない。
まさか、それが自分の息子だとは思わなかったが。
朱里が高校に入り丸一年が過ぎて姉と義兄が事故死した時、残された朱里を引き取るのは当然の事だった。
違和感もなく迎え入れたが、それが間違いだったのかもしれない。
駿は次第に親の目どころか近所の目も憚らずに朱里と一緒にいる時の態度が大胆になっていった。
朱里が自分以外と外出する事は許さず、門限や電話を制限するなど、どんどんと独占欲が傲慢へとエスカレートしていく。
武史の目には、駿が朱里を自分なしには息すら出来ないように仕立てようとしているように見えた。
だが、まだ軽く窘める事しかしなかったのは、朱里が負担に思っている様子がなかったからだ。
幼い頃から駿の言動は朱里の為のものだと、彼女には刷り込まれている。
まだ、愛情からの拘束だと云えない事もない。
それが変わったのは、朱里が進学せずに働くと云い出した頃だ。
駿は一も二もなく反対した。武史も同意見だっのは、朱里がレベルの高い進学校に通っていたからだ。姉が生きていたとして、朱里を大学まで行かせてやりたかった事は想像に難くない。
だが駿は違った。
就職どころか進学も許さないと、その日彼は朱里の部屋に外からしか開けられない鍵を付けた。
彼にとってその鍵は朱里を守る為の物。だがそれは詭弁にしか聞こえない。
実際にその鍵が使われる事はなかったが、朱里に対する駿の拘束は更に強まっていった。
会社に取引先の社長から連絡があったのはそんな頃だ。
割合に懇意にしているその社長には駿と同じ年の娘がいる。
同じ大学だという話だったが、以前駿に聞いたが彼は認識していないようだった。
当たり障りのない世間話の後、相手は機嫌の良い声で本題を切り出す。
「そろそろ一度、互いの家族揃って食事でもいかがですか」
「食事、ですか? 結構ですが家族揃ってと云うと」
相手の会社とは友好な関係を築いている。
だが会社の規模や取引内容から言って、優位なのは相手側だ。
取引が潰れたとして困るのは武史の会社のみで、相手は蚊に刺された程にも感じないだろう。
それが家族を交えて食事などと云われても、何故としか思えない。
武史の戸惑いを察したのか、相手はくすりと笑った。
「まだ学生とは言え、認めてやるのに早い事はないでしょう」
「認める…?」
「駿くんはなかなかの好青年だ。娘には勿体無いくらいですよ」
聞き間違いかと思ったが、問い返すことは辛うじてしなかった。
いつも惚けられてますよ、そう言った声は満更でもないのが分かる。
これは、恋人の父親同士としての会話を求められている。
この社長の娘と駿が付き合っている、そう聞き取れた。
だが、武史が知っているのは朱里に異常な程の執着を見せる駿の姿しかない。
混乱のまました会話は、碌に覚えていない。
食事の約束だけは、駿と相談すると云う事で先送りにした。
「ああ、電話があったんだ?」
まずは事実確認をと思い駿に問えば、息子は全く悪びれなかった。
「付き合っているのか」
「まあ、付き合っていると云えばそうかな。向こうは卒業したら結婚したいとか云ってる。会社はこっちを継いでも大丈夫だから。いつかは合併させてもいいけど」
「お前は……」
言葉を失いかけたが、辛うじて出た言葉もそれだけだった。
まるで異生物でも見ているような気分でいる武史に駿は軽く笑った。
「驚いたよ。しつこく寄って来るんで相手をしたら、前に父さんが言っていた会社の娘だったんだから」
「相手をしたって、お前は朱里を好きなんじゃなかったのか」
明け透けに二人の交際を認めた事はない。それでも、ここまで執着するのだし想いあっているのだから仕方がないと思っていた。
何より朱里が本当に自分の娘になる事に不満などある筈がなかったのだ。
「朱里はどうするつもりだ」
そもそも男女の交際など知らなかった朱里を手の内に囲い込んだのは駿だ。
あれだけストレートな態度を取られ続けては、朱里が他の男と付き合った事があるとは思えない。
それが降って湧いたように他に交際相手がいると云われても、父親としても男としても納得の仕様がなかった。
「今はあっちの話だろ」
駿は朱里の名前を出されて不快そうに眉を顰める。
不快なのはこちらだ。何を考えているのか全く判らない。
「俺は父さんの会社を継ぐ。それに有利なコネを嫁で手に入れられるんだから、偶然とは言えよくやったとでも言って欲しいね」
「云えるか……この馬鹿者が」
「まあ、それでも構わないけどね。その内紹介するよ」
一瞬、そんな考え方ならば跡は継がせない。そう云いたくなるが、一人息子にそれを宣言する事は躊躇われた。
「じゃあ、なぜ朱里に執着する。朱里だって年頃だ。お前に関わっているより普通に交際相手を見付けた方が幸せだろう」
気立ても良く見た目も可愛い娘だ。
叔父の欲目かも知れないが、朱里ならばすぐに相手の一人や二人見つかるだろう。
今までその芽を尽く潰して来たのは駿だった。
それを言った途端、駿の顔付きが変わった。
怒気を抑えられないように、睨みつけて来る。
「朱里は誰にも渡さない。あいつは俺のものだ」
「そんな訳があるか、いい加減にしろ」
「いや、ある。俺と居れば幸せなんだよ、あいつは。高校は我慢したが、もう誰の目にも触れさせない。悪いけど、父さん。あなたにもね」
一瞬、狂気が見えた。
本気で云っているのが分かり、鳥肌が立つ。
「……自分は結婚するのにか」
「朱里にとって、俺だけならいい。世の中は朱里に優しくない。俺だけで十分だ」
それは両親を亡くして一人となってしまった事を言っているのだろうか。
朱里は小さい頃から一般的な子どもだった。
いじめに関わった事も無ければ問題を起こした事もない。
それは姉からも聞いていたし、時折近所で見かける友人と遊ぶ姿でも見て取れた。
学校での事もよく話すし、心配した事はない。
「嫁になる娘さんは許さないだろう。それは愛人というものだ。朱里をそんな日陰者にするのか」
「日陰者? それは父さんの尺度でしょう。とにかく、朱里は一生俺の傍におきます」
「そんな事が出来ると思っているのか。朱里には朱里の人生がある。お前にそんな権利はない」
これは、本当に自分の息子なのか。
まったく理屈の分からない言葉に武史は握った拳を震わせる。
「朱里の人生? 俺が全て。それで十分でしょう」
動物を部屋に閉じ込める子どものようにか。
ペットの世界が自分に終結する事を喜ぶように、朱里を閉じ込めたいのか。
「邪魔をするのなら、父さんだろうと許さない」
「……朱里は人間だ。お前のペットじゃない」
「当然ですよ。だが、俺に対して生きていればいい。不自由はさせません」
話は終わりだと席を立つ駿の背に、何を云えばいいのか。
絶望にも似た疲労感に、武史は眩暈を覚える。
「……姉さん」
もういない、大切な姉。
彼女が築いた幸せな家庭で、彼女が愛した大切な子ども。
自分は彼女を守れないのだろうか。
壊すのは、自分の息子なのか。
力尽くで止めるにしても、幼い頃から柔道を習わせていた息子には勝てまい。
万が一負けた場合、最悪自分が動けなくなったとしたら、本当に駿は朱里を飼い殺しにするかもしれない。
あの目は、父親だからと云って斟酌はしない。それを恐怖だとは思わないが、自分だけの勝負ではない。朱里を自由にしなくては意味がない。
朱里に対してだけ、狂っている。
いつからだったのか。ずっとだったのか。
やっと気が付いた自分の不甲斐なさに、武史は記憶にある姉と義兄の姿に深く項垂れるように頭を落とした。