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3-13

 ピ、と微かな電子音と共に室内が明るくなる。
 日中閉め切られた部屋は除湿が自動的に機能するエアコンのおかげで、それほど重くない。

 悠介はエアコンを冷房に切り替えるとスーツを脱ぎ捨てバスルームへと向かった。
 頭から冷水を被りたい気分だったが、体は熱いシャワーを欲している。
 湿度の高い季節に徒歩でうろうろするものじゃない。
 必要以上の疲労感に蝕まれている、その自覚は自嘲を誘う。

 2ヶ月を無為に過ごしているのだ。
 朱里を探して歩くのも、仕事が詰まれば儘ならない。
 無作為に探した所で意味がない事は分かっている。
 すべき事も知っている。

 何故吉岡駿に直接ぶつからないとずっと己が自分を詰っていた。
 長い友人だ、今更遠慮などない。
 妻帯者がふざけるな、朱里を返せ。そう怒鳴り込めばいい。

 だが、悠介は覚えている。
 他者が入り込む隙などなかった二人の姿を。
 朱里が田沼から逃げる為に吉岡を頼ったと云うのならば、朱里が最も欲しているのは吉岡の手なのかもしれない。

 第三者から見て不幸でも、それが朱里にとって幸せなのかもしれない。
 自分の事を第三者と云っている時点で及び腰だと失笑する。

 吉岡の許で朱里が幸せに笑っている事は有り得ない。
 その自信は時と共に失われていく。

 女々しい事だ。
 自分で決定打を打つ事を恐れているとは。

 だがいつまでもこうしていられる訳でもない。
 やはり吉岡に連絡を取ってみなくては始まらないのだ。

 シャワーを止めると勢いよく頭を振る。
 ずるずると情けない自分を晒しているのはもう沢山だった。

 電話次第では訪ねて行った方が話が早いだろう。
 悠介はバスルームを出ると髪をタオルで擦りながら部屋に戻り部屋着ではなく外出できる服を着込む。
 一度自分の頬を両手でパンと叩き、大きく息を吸った。

 らしくないじゃないかと自分を叱咤する。
 ぐずぐずと足踏みをするなど、笑止千万もいい所だ。

 大切な事は変わらず一つ、朱里が笑っているかどうか。
 それが自分の所でないとしても構わない。
 元々自分のものになる筈がなかった娘だ。
 うっかり欲が出て自分を見失うなど自分らしくない。

 悠介は携帯を掴むと部屋を出た。




「よう」

 リビングに戻るとキッチンから男が顔を出した。
 いつからいたのか。
 会社で別れたのはもう何時間も前だ。
 
「何やってんだ」

 腕捲りをした遥人は鍋で湯を沸かしているらしい。
 まな板の上には刻まれた胡瓜と叉焼が乗っていて、料理中なのは聞くまでもない。

 一度朱里の物となったこの部屋の鍵は遥人の手に戻っていた。
 まるで自分の部屋のように上がり込むのはいつもの事だ。

「冷麺食べたくてさ。付き合え」
「……冷麺、ねえ」

 鼻歌まじりにキムチのパックを開ける姿に力が抜ける。
 これは気を遣われているのか。そう云えばここの所やけに夕飯をここで作る。
 素直じゃない労わりだと苦笑が漏れた。

「この前置いて行ったゆで卵、まだあるか?」
「遥人のほうが知ってるだろ」

 自慢ではないが、悠介に料理の能力はない。インスタントラーメンくらいなら作れるが、それも具なしだ。
 大抵の事は苦もなく熟(こな)したが、料理のセンスだけは壊滅的だった。
 以前は料理を仕込もうとした事がある遥人も今では何も云わない。
 手を出される位なら全部自分でやるから座っていろ。そう云い出すまでに一ヶ月も掛からなかった。

「確かに。お、あるある。やっぱり何も減ってねえな」

 ゆで卵を取り出しながら、遥人は呆れたように冷蔵庫の中を眺める。
 皮を剥くだけの卵すら触らないのだ、当然他も僅かにも動いた形跡すらない。

 朱里がいた頃この冷蔵庫の充実感と云ったらなかった。
 食材は勿論、作り置きの惣菜やらデザートやら。
 台所とは無縁だったこの男が朱里に『お願い』されてタッパーを電子レンジに入れる姿を見た時には、遥人は立ち上がった仔鹿でも見たような気持ちになったものだ。

 朱里が姿を消して、彼女が作り置いていた惣菜の残りが傷みだしているのを冷蔵庫で発見したのは遥人だった。
 またドリンクにしか悠介の視線がいっていないのは云うまでもなく、だからと云ってそれを指摘する気にもならない。悠介自身もその事に気付いているのだろうから。

「悠介、丼」
「ん」

 食器棚から丼を出し、悠介はバスルームへと戻って行く。
 程なくドライヤーの音が聞こえだし、やれやれと首を軽く回した遥人のポケットで携帯が震えだす。
 バスルームをちらりと見遣り、遥人は通話ボタンを押した。

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