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3-14

 何時の間にか陽が陰り湿度が増した中を朱里はゆっくりと歩く。
 まだ昼を過ぎたばかりで慌てずとも十分に時間はある。

 武史と入った喫茶店からマンションとは反対方向に足は進む。
 もうすぐ夜間に訪れた整形外科があり、駅を過ぎれば目的地はすぐだ。

 武史に云われた言葉が思考の殻を上滑りするように掠めては零れていく。

 過去の、そして現在の自分と駿の関係を何と表すのか、もう分からない。
 考えようとするが、上手く思考が動かなかった。

 行かなくては。
 何故か強く思う。
 人としての生活を捨てたくないと思ったあの場所なら、この頭も少しは動く気がする。

 思索を放棄して、今はとにかく足を動かす事に専念する。
 長く動いていなかった体は重く、足取りも怪しい。
 ともすれば膝が崩れてしまいそうだった。

「ちょっと、お姉さん大丈夫?」

 不意に声が頭上から降って来る。
 顔を上げた朱里は、そこで初めて自分が本当にしゃがみ込んでいる事に気付く。
 覗き込んでいたのは大学生ほどの若い男だった。

「具合でも悪い?」

 弱く頭を振ると朱里は立ち上がる。小さく頭を下げて立ち去ろうとする朱里の腕を男は掴んだ。

「待って。……もしかして、横澤さん?」

 訝しむような、探るような視線に朱里は返事を戸惑った。
 知らない男だ。自分より若い、しかも大学生に知り合いはいないので覚え違いでもないだろう。
 
 朱里は人違いのような顔をして立ち去ろうとしたが、男はその進行方向を遮るように立ちはだかる。

「待って待って、横澤朱里さんだよね?」
「……誰?」

 朱里の小声に男の顔が明るくなる。
 男の胸ポケットに入っている写真。数ヶ月前にスナックで撮られたその写真だけが頼りだった男は、雰囲気が全く違い様相も変わった朱里を見分けられた事に安堵しているようだった。

「良かったー。本当にここで待ってても来るか分かんなかったし。見過ごしてたらどうしようかと思ってたんだよね」

 朱里の問いが聞こえなかったのか、男は一頻り良かったと繰り返すと携帯電話を開き操作した。

「もしもし、オヤジ? 今病院の方に来てるんだけど」

 笑顔のまま話し出す男を戸惑い見ていた朱里だが、視線を落とすと男を擦り抜けるように歩き出す。
 気配の乏しい朱里の静かな動きに、視線を逸らしたまま会話を続ける男は気付いていない。
 朱里は自分の名前を知られていた事が不可解で、無意識のうちに裏道を選び足を進めた。

「だから見つけたって。写真と全然違うなんて詐欺だろ。で、これからどうしたらいい? この人随分具合悪そうだけど」

 電話の相手にそう問いかけながら振り返る。
 当然そこにいるだろうと思っていた姿がない事にやっと気付き、男の手から携帯電話が滑り落ちた。

 ヤバい。瞬時に電話の相手にバレれば只では済まないとの計算が走る。誤魔化そうと携帯電話を持ち直すと、既に何かあったを見通すように声が掛けられる。

『どうした』

 ただでさえ野太い声が低められ、電話越しだと云うのに男は相手の鋭い眼光に射竦められる気分で息を呑んだ。

「…いない」
『いない?』
「探す。ちょっと待ってて」

 慌てて辺りを見回しても、あれ程緩慢に動いていた筈の姿は見当たらない。

『莫迦が。すぐに見つけ出せ。ヤバいのがそっちに行ってる』
「何だよ、それっ」

 駆け出しながらも問い返すと、電話からカチカチという音が聞こえて来る。どうやら相手は車の中らしい。ウインカーの音だと聞き取れた。

『どっちの方向に向かった』
「……多分駅の方」
『それなら家があった場所だろう。絶対見付けて守れ』
「何から!」

 男は朱里の姿を探す事から、云われた場所へ向かう事に切換え走り出した。
 この土地に詳しくない自分が、昔近くに住んでいたという朱里が選ぶ道を見つけ出す事は難しい。それなら待ち伏せをするまでだ。

『今、俺も向かっている。とにかく誰にも渡すな』

 男が電話の相手に命じられたのは、横澤朱里を見つけ出す事。
 整形外科ととある駐車場近辺に重点をおいて張り付いていろ。
 事情は一切聞かされていない。ヤバいだの、守れだの。病人にすら見えた彼女が一体何者かすら知らないというのに。

 ブツリと通話を切られ、舌打ちまじりに携帯電話をポケットに捻じ込む。
 養父は仕事中の筈だ。だからこそ、大学を休んでまで協力していたのだ。仕事を放り出してまで来る程、あの女に何があるのか。
 詮索しようにも、電話の切れ方を考えれば彼女を見つけ出してからでなくては無理だろう。
 それよりも、養父が辿り付く前に彼女を捕まえなくては。

 養父の迫力は只者ではない。
 しかも大学卒業後は彼の下に付いて後を追いたいと思っている。
 怒らせたくもなければ、失望させたくもないのだ。
 その為にも、男     佐山卓は周囲に目を配りながら目的地へと急いだ。

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