カシャン、とフェンスが音を立てる。
緑色のそれは体重をかけると軽く弛んで少しだけ寄りかかりやすくなった。
もう少しで辿り着くと云うのに、体がダルくこれ以上歩き続けられない。
朱里は少しだけ休んで行こうと道の端に寄っていた。
分からない事ばかりだ。
先刻の自分を知っていた男といい、叔父の話といい、只でさえ考えの纏まらない朱里を混乱させる。
来た道を振り返ってみても追って来る姿はない。
今更何故自分を知っているのか、聞きに戻る気もなかった。
ずるりと体が沈む。
膝が自重を支える事を拒否するように座り込んでしまった体は、どうにも動かせない。
朱里は深く息を吐き、手の甲でいつの間にか吹き出した額の汗を拭った。
『人形やペットじゃない。そうだろう』
不意に武史の声が脳裡に響く。
……ああ、そうか。そう思う自分がいる。
云われた駿の束縛というのはピンと来なかったが、確かに何かにつけ駿は昔から自分の知らない朱里の行動を嫌がっていた。
駿の知らない友人と出掛けるなど有り得ない事だったし、マメに電話をしなければ外出など許されなかった。
過保護なのだと思っていたが、きっと叔父が云うのはその事だろう。
今の状態が駿の望んでいた物であるのなら、人形かペットか、実際そうである事が駿の望みだ。
自分が抱き人形である事は既に自覚している。
人形ならば、誰でもいいのだろうか。
そう自問すれば否と即答出来る。
駿にとっては自分でなければならないのだ。その執着に理由などない。
『生まれた時から、お前は俺のものだ』と駿は云った。
その言葉が全てだと、朱里自身が知っている。
長い長い時間をかけて、駿は朱里が自分の所有物である事を当然としてしまっている。
そしてそれは、朱里が吉岡家を出るまで、何者にも遮られる事はなかった。
朱里も意味合いを違えていたとはいえ、受け入れてしまっていた。
それでも、このままでいい筈がない。
駿には家庭がある。
武史の云った通りならば、駿は結婚する前から二重生活を望んでいたのだろう。
家庭と朱里、どちらも手離さない事が可能である筈がない。
以前朱里は駿が幸せになる邪魔をしたくない、会社が絡むと云うのであれば叔父をも不幸にしたくないと姿を消した。
その思いは今も変わっていない。
しかも、今は駿の妻や子どももいるのだ。
自分からきちんと決別をしなくては。
今また姿を消したならば、いつかまた同じ事が繰り返される。
もう一度同じように駿を傷つけたくはなかった。
「見付けた! ああ、もう焦らせないでよ」
降って来た声に顔を上げると、先刻の男が両膝に手をついて荒い息を治めている。
「逃げなくても、何もしないから」
「……あなた、誰?」
何故そこまで自分を追って来るのかが分からない。
朱里はフェンスに手を掛け、ゆっくりとした動作で立ち上がる。
「卓。あなたは朱里さん?」
「……名前じゃなくて」
溜め息まじりに云うが、朱里はそのままフェンスを支えに歩き出していた。
「何処行くの?」
「構わないで」
「だって貴女、歩けてないじゃん。手伝うよ?」
無視して歩き続けようとしたが、フェンスが途切れてしまっていた。少し先には塀もあるが、そこまですら歩くのは辛い。
目の前に差し出された手を辿ると、にっこりと笑う人懐こい顔がある。
目的地に辿り着いて少し休めば、少しは体力も戻って来るだろう。そうしたら問い質せばいい。
朱里は、卓の手を掴む。するりと腕を取られて体重の殆どを預けるようにして歩き出した。
「具合、結構酷くない?」
「……平気」
歩くのを止めない朱里に卓は眉根を寄せる。
腕を取って気付いた。体が熱い。汗は発熱しているせいだろうか。
このまま本人の気の済むようにさせていいものか迷うが、だからと云ってここに引き止める事も叶いそうにない。
養父はこちらに向かっていると云ったのだから、駐車場に辿り着いてから休ませてもいいだろう。
「 朱里さん?」
どのくらい時間を掛けただろうか。もう少しで今まで頑なに目指していた場所があるというのに、朱里の足がぴたりと止まる。
突然石のように固まった朱里を見下ろした卓は、朱里が瞠目しているのに気付きその視線を追った。
「……知り合い?」
駐車場の入り口に男が立っている。
背はそれ程高くないが、固太りの中年の男。
「何で……?」
朱里が後退りながら小さく声を上げると、男は大きな歩幅で近付いて来る。
「朱里!」
田沼利之だった。何故此処にいるのか分からないまま踵を返そうとした朱里の体が大きく揺れた。
卓がその体を支え、膝を折った朱里の盾になるように立ちはだかる。
突然現れた男と朱里の関係は分からないが、朱里の只でさえ悪い顔色が更に色を失くすのは分かった。
「守れ」と云われたのはこの男からなのだろう。
「何だ、お前」
利之が低く唸る。据わった目に射竦められるが、卓には痛くもない。
もっと迫力のある男達を彼は嫌という程知っていた。その男達がこの男から朱里を守れと云うのならば、理由は分からずとも今はそうすべきなのだ。
「あんたこそ、何」
「邪魔だ、ガキ。そこを退け」
「悪いけど無理。この人に何の用?」
「関係ないだろ。すっこんでろ」
ぐいっと体を横に押され、予想外の強さに卓がよろける。
盾を失くした朱里は地面に座り込んだまま、利之を見上げていた。
「……利、どうして此処に」
「前に云ってただろ、生まれた家はもうないって。その時、場所も云ってた」
「そんなの……覚えてたの?」
些細な会話だった。それを覚えていたと云うのか。
利之は首を振る朱里に手を差し出すと、小さく笑った。
「結構覚えてるよ、お前が話してた事」
「何で」
「当たり前だろう?」
以前ならば、嬉しくて舞い上がる言葉だったかもしれない。
それは嘘ではないだろう。だが、今更なのだ。
朱里の心は、もう利之の甘い言葉では僅かにも動かない。
それが自分の心が死んでしまったからなのか、それとも利之に全く未練がなくなってしまったのか図りかねたまま、朱里はただ利之を見ていた。
「朱里、一緒に行こう」
「このお姉さんは迷惑そうだけど」
利之の手が朱里に届く寸前、卓がその腕を掴む。
弾かれるように腕を逃れた利之の逆の拳が卓の顎を捉えた。
利之よりも卓の方が背丈はあるが重量では利之の方が上だ。卓はいきなり浴びせられた拳に吹き飛ばされるように地面に叩き付けられた。
「邪魔するな!」
「……ったぁ」
ガリッと嫌な音がした。コンクリートにまともにぶつかった後頭部は痛むが構わず跳ね起きる。
「そうは」
「そうは行かないんだ、これが」
自分の声に被さるように背後から聞こえた声に、卓の体から力が抜ける。
低く野太い声。頭上から落ちてくるような迫力のあるそれは誰よりも頼りになると知っている。
だが、その脱力の隙を利之は見逃さなかった。
まずは目の前の邪魔者を片付ける。新たに現れた邪魔者はその後だ。
利之の太い足が卓の腹にめり込み、卓は再び地面へと沈んだ。