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3-16

「阿呆が、何やってんだ」
「……だ、第一声が、それかよ」

 息を詰まらせながら呻いた卓は立とうとするが、そのまま膝をつく。
 咄嗟に構えを取ったが、それでもすぐには立ち直れない。

「退いてろ」

 蹲る卓の横を大きな体が通り過ぎる。それだけで、凄まじい威圧感だった。
 その姿が近付いて来るのを、利之は睨みつけるように見ている。

 巨体と云っていい程の体躯はスーツに身を包んでいてもその筋肉の在り様が分かる程逞しい。
 厳(いかめ)しい顔に見下ろされて、利之は睨み返すのが精一杯とでも云うように身動きが取れない。

「なあ、あんた」

 がしりと胸倉を掴まれ、それだけで全身が固定されてしまう。
 つま先が浮き上がる程引き寄せられ、射竦められるような視線は逸らす事を許さないかのように鋭い。

「最近、また手を出してんだろ。ヤバいとこまで嵌まって逃げるのに、女が惜しくなったのか?」

 耳元で囁かれる声は動物の唸り声にも似ていた。
 家族の目、周囲の目。それに耐えられず、安易に手に入る薬物を得て代金の支払いに追われた上にそれを盾に売人に使われるようになった。
 転がるように落ちてゆく中、自分の全てを受け入れてくれた朱里を求めて捜し歩いた自分の全てを見透かすような言葉に利之は瞠目し顔を歪める。

「悪いがその嬢ちゃんはやれん。代わりにお迎えのプレゼントだ」

 問い返す隙も与えられず、利之の腕が後ろに捻り上げられる。
 まるで巨体の影から出て来たように、二人の男が利之の前に立った。

「な……!」
「田沼、久し振りだな」

 ぼんやりと見ていた朱里も小さく息を呑む。知った男達だった。
 何度も夢にまで現れた、背の高い厳つい顔の若い男と温和そうな中年の組み合わせ。

「しかも今回は傷害付きだ。後で診断書を提出しよう」

 鼻で哂うような言葉で利之を若い男に渡すと、巨体の男     佐山敏郎はにやりと中年     山崎を見た。

「今度は簡単に出さないでくれよ」
「ご協力感謝しますよ。傷害のほうは私達も見てますからね、そう簡単には出しません」

 和やかに会話する二人の男を朱里は呆然と見る。
 何故敏郎と麻薬取締官の山崎が一緒にいるのか、しかも何故ここに現れたのか。

「横澤さん」

 朱里の前に山崎が跪き、視線を合わせた。
 相変わらず温和そうな顔は、少しだけ困ったような表情をしている。

「田沼を出してしまったのは不覚だったが、二度目はない。安心していい」
「……二度、目?」

 遣り取りを聞いていれば利之がまた違法薬物に手を出している事は分かった。だが、気持ちの何処かが理解しきれていない。
 朱里の問い返しに、山崎はゆっくりと頷いた。

「執行猶予中にまた手を出すなんて莫迦な男だ。あんたが付き纏われているのも聞いた。今度はあんたは完全に被害者だよ」
「山崎さん、何故ここに……?」

 呟くような疑問に山崎の顔は苦く笑う。

「俺達の網よりも佐山さんの網の方が確かだった。呼び出されて付いて来ただけだよ」

 どういう事なのか飲み込めずに呆然としたままの朱里の額を山崎は触れ、眉を顰めた。

「それより、体を壊したのか? 随分痩せたし、熱もあるようだが」
「……別に」

 釈放された日に見た朱里が最後の記憶だったが、その変貌振りは異常だとしか思えない。
 しかも目には生気がなく、虚ろにも見える。
 山崎は何か考えるように視線を反らすと、もう一度朱里を見た。

 こんな風にどんよりと生気を失った人間を山崎はうんざりする程知っている。
 しかし、朱里を担当した案件が終わった今だからこそ云える事だが、山崎も朱里がそういう人間だとは思っていない。
 四ヶ月間という短くはない期間の取調べで、恐らくは朱里は一度も嘘を云わず、罪状を     規制薬物を認識し使用していた事や、田沼と共謀していた事を否定し続けていた。
 それを使用する心情すら分からないとまで、云っていたのだ。

「一応職業柄、一般人よりは詳しいつもりなんだが。…最近何か薬を飲んでるか? ひょっとしたら副作用で熱が出ているのかもしれない」

 そんな事もあるのだろうかと朱里はぼんやりと考える。
 確かに体がダルく熱っぽいのは普通ではないのかもしれない。それは、いつからだっただろうか。

「薬……おかしな物は何も」
「普通に処方される薬でも、体に合わなければ可能性がある。何も飲んでない?」
「ああ、化膿止め……。怪我をして、化膿止めだけは飲み続けてます」

 駿が病院から貰って来た化膿止め。あれを飲み出してからだったろうか。
 考えてみるが、朱里の思考はそこまで辿り着けなかった。結局、よく分からないと首を振る。

「今持ってる?」
「いえ、今は……」
「そう」

 山崎は立ち上がると敏郎に小声で話しかける。
 朱里は何故そこまで聞くのだろうかと、不思議に思いながらもそれ以上聞く気にはならなかった。



「さて、何処に帰りたい」

 山崎が立ち去り、敏郎が首を傾ける。
 そう問いながらも予想はしていた。

 本来ならばこのまま悠介の許に連れて行くのが話が早いのだろうが、そうは出来ない事情もある。
 ただ連れ去ればいいというものでもない。

「……敏郎さん」
「今住んでいる所でも、俺は構わないが」

 朱里は地面を見ていた。
 この男が来たという事は、悠介は自分を探しているのだろうか。

「……帰れませんから」

 何処に、とは云えなかった。だが通じない筈もなく、敏郎は先刻まで鋭い眼光を放っていた目を柔らかく細める。

「そうか? 何故?」
「逃げたから……」
 
 逃げ出して、傷つけた。もう二度と会えないのは分かっている。
 朱里は弱く笑んだつもりだったが、口許を緩めるのは酷く難しかった。

「今住んでいる所に、帰ります」

 敏郎は軽く眉を上げて了承の意を示すと、朱里を抱え上げる。
 驚いた朱里だったが、歩けないだろうと云われれば大人しくするしかない。

「莫迦息子を病院に落とすついでもある。気にするな」
「……息子?」

 見れば卓が気まずそうに後頭部をハンカチで押さえていた。

「息子の卓ですー。親父みたく強くなくてお恥ずかしい」
「大丈夫……?」
「ああ、血は出てるけど多分平気。気にしないでよ、結構頑丈なんで」

 人懐こい笑顔で明るく云われ、朱里は息を吐く。
 助けられた挙句に怪我を負わせて、迷惑しかかけていない。それでもその明るさに救われる気がした。

「油断するからだ。鍛え直しだな」
「分かってるよ、反省してます」

 親子の会話を聞きながら、朱里は太く逞しい腕に抱えられ近くに停めていた車に乗せられた。




 卓を途中で降ろした敏郎は迷う事なくマンションへと向かった。
 エントランスで朱里の保険証を見せ、カードキーを一枚再発行させる。
 いかにも具合が悪そうな朱里の姿に、管理人は敏郎が促すまま手早く手続きを取った。

「……ありがとうございました」

 ベッドに押し込まれ、朱里が見上げて云うと敏郎は柔らかく笑う。

「ゆっくり休むといい」
「あの……」

 悠介には云わないで欲しい。そう云いかけた朱里だったが、どうしても声にならなかった。
 名前を口にすれば、違う望みも出てきてしまいそうな気がして。
 聞きたい事もある。何故、あの場に現れたのか。何故利之の事を知っていたのか。
 だがどれも言葉に出来る程には纏まらず、結局口篭ったまま敏郎を見つめる事しか出来ない。

「おやすみ」

 ぽん、と布団を軽く叩かれて、朱里は一つ頷き目を閉じる。
 その姿を見て敏郎は音に出さずに深く息を吐いた。

 別れ際に山崎が云ったのだ。朱里の変貌は、恐らく薬が絡んでいると。
 餅は餅屋という言葉もある。それを一笑に付す事は出来ない。
 それどころか、やはりという言葉が浮かんだ。それ程までに痩せ細り、生気を失った朱里の瞳は以前を見ているだけに異常だった。

 部屋に入った時に見つけておいた薬袋。キッチンに置かれたままのそれを手に取ると、そのまま部屋を出る。

 もう猶予はない。
 これ以上延ばす事に、彼女の体は耐えられないだろう。

 だが、動き出すのは自分ではいけないのだ。

 この正念場に動き出せるかどうか、それに掛かっているぞと息子のように思っている男を思いながらも、酷く歯痒かった。

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