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3-17

 バスルームを出た悠介はリビングのソファに座ると携帯を開く。
 テーブルの上には冷麺を盛り付けられた丼が置かれ、その向こう側で足を組んだ遥人がその様子を見ている。
 普段仕事中しか掛けない眼鏡を掛けた悠介の顔は数時間前に見たものとはまるで違っていた。

 この二ヶ月というもの、いじけた子どもが虚勢を張っているような顔をしていたのだ。
 そんな顔をしている限り、何を手助けしようと事態は好転しない。
 当事者が自覚しなくては意味がないと敢えて放置していた。

 漸く、自覚したらしい。
 大体に於いて、こうして腐っている男などを相棒に持った覚えはない。
 いつかは浮上し、己自身で痺れを切らすだろうとは思っていた。

「目が覚めたか?」

 揶揄する遥人に悠介は肩を竦める。

「じりじりしているのには厭きた。似合わない事はするもんじゃないな」

 くつくつと笑う遥人ににやりと笑って見せながら、悠介は携帯電話を耳に当てる。
 程なくコール音が聞こえだし、悠介は息を整えた。

 恐らくは駿は自分と朱里が知り合っている事すら知らない。彼女は云わないだろう、それは確信だった。
 ならば知らぬ振りをして駿を呼び出し聞き出すか。
 朱里に会わせろと云えば警戒させる事は間違いないだろう。

「……出ないな」

 根気強くコール音を聞き続けていた悠介に、遥人が徐に手を伸ばす。
 携帯電話を取り上げられ、悠介の眉根が寄った。

「何だ?」

 勿論戯れでそんな事をする筈がない事は分かっている。
 まるで出ない事を当然とするようなその様子が不可解だった。

「そいつと話すより先に聞く気があるなら、今まで分かった事を話す。聞くか?」
「……ああ」

 これまでにもある程度は敏郎から調査の結果を聞いている。
 駿については驚く内容も入っていた。
 
 大学時代から朱里の他に交際相手がいた事は悠介も知らなかった。余程慎重に付き合っていたのか、結婚する時にも仲間内で大学を卒業してから見付けた相手だと話していた。
 悠介も朱里がいなくなって駿が自棄になったように遊び歩いていた時期に知り合ったものだとばかり思っていたのだ。
 その後、結婚してから朱里の職場付近を覗いていた事も分かっている。突然朱里が姿を消して職場の者に消息を尋ねていた事も。
 恐らく朱里の行方が本当に分からなくなり、探偵を雇う事を考え始めたのだろう。

 夫婦仲は悪くない。子どもに対してもいい父親のようだ。少なくとも対外的には。
 ただ最近会社にいる前後の時間に不審な動きがある。
 そこまでは聞いていた。
 
 田沼利之に関しても報告が上がっている。
 釈放後は友人を頼って繁華街のバーで働いているようだったが、女と薬は癖になると止められるものではないらしい。
 どう軽く見積もっても再犯は早いだろう。もしそうなったら証拠は必ず掴むと敏郎は云っていた。
 昼間朱里の生家があった付近をうろついている様子からも未だ朱里を諦めているとは思えない。
 見張りをつけている事も聞いている。

「まずは田沼だ。今日おっさんが麻取に引き渡した」

 悠介は頷く。近々そうなる事は分かっていた。
 敏郎が利之と朱里を担当した麻薬取締官に接触した事も聞いている。
 その前に敏郎に一度聞かれたのだ。
 償わせる事も闇に沈める事も出来るがどうする、と。
 
 はっきりとは告げなかったが、それは田沼が薬を手に入れている辺りを治める組にでも引き渡すという事だろう。
 田沼が実際何をしているのか興味もないし、それでどうなろうと構わなかったが寝覚めの悪い話だ。
 敏郎の表情からして悠介が頷くとも思っていなかったに違いない。
 社会的制裁を与えればそれでいい。それは身から出た錆びでしかない。
 そう云った悠介に敏郎は深く頷いていた。

 それで実刑を受けてまだ朱里に付き纏うのであれば、ストーカーとして処理する事も出来る。
 一般にストーカーに対する処理は難しいとは云われていても、朱里さえ手の内にあれば簡単な事だ。少なくとも『御堂』にとっては。

「今度は傷害事件付きだ」
「は?」

 予想していなかった言葉に思わず声が出た。罠にでも嵌めたのかと一瞬考えたのは、ある程度の事ならばやってしまうだろう身内達の事を思ってだ。
 その考えを見透かしたのか、遥人は皮肉気に笑う。

「卓に朱里の盾になれって云っておいたら、本当に殴られたらしい。こっちは手を出してないから言い逃れは出来ない」
「…卓?」

 まだ大学生の敏郎の息子の名前が出てきて思わず問い返す。
 事情があって敏郎が引き取った子どもだが、すっかり『御堂』の男達に魅せられて敏郎の後を追っている。
 多少お調子者だが敏郎に鍛えられている分、下手な大人よりは腕が立つ。その卓が一方的にやられたのか。

「手を出す前におっさんが止めたって所だろ。事情を話さないで朱里を探させていたんだから」
「卓まで使ってたのか」
「奴もそろそろおっさんの遣り方を覚えねえとな。取り敢えず今回は病院と家があった場所を指示したって話だ」

 さすがにそこまで自分で調べろとは云わなかったらしい。そう云った遥人の先の言葉に悠介が反応した。

「病院?」
「ああ。保険証を使った事が分かったからな。どちらも近かったが、ビンゴだったって訳だ」

 病院と云う事は病気か怪我か。しかも悠介自身も何度も通った場所の近くに朱里はいたのだ。
 ぐるぐると思考が廻りだしたが、ふと悠介は笑いを洩らした。
 この男達は。

 この男達はそこまで調べて動いた癖に、悠介には何も云わないのだ。
 無論それに不服があるわけではない。
 ただ、悶々としている悠介が目を覚ますのを、事を進めながら待っていたのかと思うと笑うしかなかった。

「お前等、甘すぎだよ」
「そうか? 別に教えてやる程親切じゃなかっただけだろ」
「……俺が愚図ってただけか」

 溜め息を漏らした悠介に携帯電話を差し出して、遥人はじっとその目を見る。
 軽い動作でそれを受け取ろうとしたが携帯電話は掴まれたまま離されず、それを訝しく思って遥人を見た悠介は一転して真剣な青碧色に目を細める。
 話はこれで終わりではないと、その目を見れば分かった。

「吉岡駿の今の居場所も掴んでいる。どうする?」

 決着をつけるか否か。
 そこに朱里もいるのは間違いないだろう。その上で、どうするかと問いている。
 答えなど、今の悠介には一つしかなかった。

「今から案内を頼めるか?」
「下でおっさんが痺れを切らしてるよ」

 冷麺で誤魔化すか、結局喰ってないし。そう笑い、遥人は立ち上がった。
 悠介がバスルームに消えた後の電話は敏郎だった。
 今頃車の灰皿は吸殻で一杯になっているに違いない。

「本っ当に、甘いな」
「本人に云ってやれよ。いい嫌がらせだ」

 苦笑いをしながら眼鏡を外すと悠介も立ち上がる。
 常々遥人に甘い大人達だと思っていたが、どうやら自分も同列に甘やかされている。
 それは酷く擽ったかった。 
 
 




「悠介」

 運転をしながら敏郎が後ろに座った悠介に向けて左手を差し出して来る。
 その手には一枚のカードと白い袋があった。
 見ればカードにはマンションの名前らしきロゴが記載されており、カードキーなのが分かる。袋の方は整形外科の名前や住所が印刷され、朱里の名前と効能書きの部分に化膿止めという手書きの文字があった。

「……こんなものどうやって手に入れた訳」
「昼間ちょっとな」

 ちょっとで済む話ではない。いつもながらどんな手を使っているものなのか。
 ミラー越しにじっと顔を見ると、敏郎は苦笑を浮かべた。

「鍵を持っていないって云うから再発行させてそのまま渡さなかっただけだ」
「持っていない?」

 鍵がなければ部屋を空けない程の朱里が外出して鍵を持っていないなどという事が有り得るのか。
 不審気な悠介の様子に敏郎は言葉を続けた。

「部屋はオートロックだから出る事は出来たんだろう。あれは鍵を与えられてなかったという感じだ」
「…与えられていない?」
「あの様子だと、ずっと外に出ていないな。まともに歩けていなかった」
「体調でも崩しているって事か?」

 悠介の眉根が寄る。そう云えば、保険証を使ったと云っていた。

「……悠介」

 不意に遥人が口を出した。
 更に問い質したかった悠介だが、続けずにそちらを見る。

「将人の友人の病院を手配してある」
「……どういう事だ」
「おっさんがその薬をそこに持ち込んで調べさせた」

 顎で示された薬袋には薬が数回分残っている。
 悠介の視線がそれを確かめるのを待つように、遥人は一呼吸おいた。

「朱里は化膿止めだと飲まされていたらしいが、それはそんな可愛い物じゃない」
「何だ」

 悠介の声が低まる。それを誰が指示していたかなど聞くまでもない。

「所謂精神科で出される薬だそうだ。普通の状態で飲むものじゃない。…薬漬けにしてでも朱里を閉じ込めたかったらしいな」

 嫌悪感を隠さない遥人の言葉に重なるようにドスッと音が鈍く響く。悠介の拳を受けたシートは悲鳴を上げるが、男達は動かずに黙っている。
 エンジン音だけが微かに響く車内で、暫く歯を喰いしばっていた悠介は搾り出すように声を出した。

「朱里の、様子は」
「……衰弱が酷い。医者の話だと、栄養不良や脱水が原因で中毒を起こしやすい薬だそうだ。見るからに痩せていたからな、食欲不振や発熱の症状は出ている筈だ。最悪の状態までいってない。…落ち着け」
「落ち着いてる」

 敏郎の言葉にそう切り返す悠介の拳はこれ以上ない程に力が込められている。

「意識障害もない。話は出来る」
「……説得して、連れ出せって?」

 はんっと笑うがそれ以外ない事は悠介自身分かっている。
 朱里は自分の意思で悠介の許を離れた。朱里が自分で戻って来なければ、自分にとっても朱里にとっても意味はないのだと。

     駄目だ、頭に血が昇ってる」

 ちっと鋭く舌打ちをすると、悠介は前髪を掻き上げシートに勢いよく凭れた。
 両手で顔を覆い、そのままパンッと頬を叩く。

「話でも何でもするさ。絶対に連れて帰る」

 無為に過ごした時間で悪化した状態を必ず取り戻す。
 そう自分に言い聞かせながら、悠介は朱里がいるだろう街に入った車内で呼吸を落ち着けるように目を閉じ深く息を吐いた。 

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