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3-18

 バタンガタンと激しい音が聞こえ、朱里の意識は浮上した。
 目を開けても何も見えない。部屋に闇が降りている事に少し驚く。
 久々に熟睡をしたのか全く夢を見ることもなく、ただ時間だけが飛んだようだった。
 いつから寝てしまったのだったろうか。
 ぼんやりと考えていると、突然周囲が明るくなった。

「朱里!」
「……兄さん?」

 何を慌てているのかと考える前に掛け布が剥ぎ取られる。
 
「あれ程外に出るなと云ったのに」

 マンションのエントランスで管理人に声をかけられた。
 それは朱里の体調を心配してのものだった。必要なら近くに往診してくれる医者がいると云われ、何故知っているのか問えば朱里が外出から戻った時自分では歩けず男に抱えられて来たと云う。
 しかも鍵を作って部屋に戻ったと。
 それを聞いた駿は、挨拶もそこそこにエレベーターに飛び乗ったのだ。

 怒りが抑えられない。酷く腹が立つどころではなかった。
 何故部屋を出た。何故男と一緒だった。何故鍵を作った。
 全てが許せない程の怒りに直結した。

「男って誰だ? まだいるのか?」
「待って、兄さん」

 ぐいと胸元を掴まれ、朱里は駿を落ち着かせようとその手に触れるが、それは乱暴に振り払われる。
 朱里の手を振り払った駿の手がそのまま彼女の頬を激しく打ち鳴らした。
 勢い余って体をベッドのヘッドボードに強か打ち付けられ、朱里は起きる事も出来ずに小さく呻き声を上げる。

「部屋から出るな、そう云ったな?」
「兄さん……」

 顔を掠めた枕に血が付いていたのを見て、顔に手を当てると唇の端が切れていて指に血がついた。
 だが駿はそんな事は目にも入らないように、更に朱里に馬乗りになる。

「何故云い付けを守らない? 誰にも会う事は許さない。ここにいろ。たったそれだけじゃないか」

 もう一度顔を殴られ、朱里の視界が霞む。
 駿の声も遠くなる。

「云う事を聞いていれば、幸せにしてやるのに」
「……兄さ…」

 瞼を伏せた朱里の体から力が抜ける。それでも尚揺さぶろうとした駿の手は、明るく響いたドアチャイムの音で動きを止めた。

 何度も繰り返し鳴る音に、駿は舌打ちしながら髪をかき上げ玄関に向かう。
 興奮した名残か目は充血していたが、何事もなかったように澄ました顔でドアを開ける。

「……父さん」
「話がある。入るぞ」

 立っていたのは武史だった。突然の父の姿に動揺した駿の横を通り、武史はリビングへと入った。

「何でここに」
「知らないと思っていたのか。それともそんなに隠したかったのか?」
「父さんには関係ない。帰ってくれ」

 駿は声を荒げるが、武史は息子に冷たい視線を投げる。
 関係ない。そんな子ども染みた拒否が受け入れられる筈がなかった。

「朱里を連れて帰る。ここに置いておくわけにはいかない」

 逃がす事も考えた。だが、朱里がそれを拒むならば、堂々と保護するまでだ。
 駿は武史にとって息子だが、朱里は娘だ。娘を守ると決めてここへ来た。

「朱里の事は俺が一番知っている。朱里はここにいるのがいいんだ。放っておいてくれ」

 強い視線で云い切る駿に迷いはない。
 己が間違っていない事を疑ってもいない様子に武史の口調も強くなる。

「莫迦を云うな。お前、朱里に何をした? あそこまで痩せて、それで良い訳がないだろう」
「朱里を外へ出す気はないっ」

 癇癪じみてくる駿の口調に反して、武史はゆっくりと噛んで含むように言葉を続けた。

「…以前も云ったな? 朱里には朱里の人生がある。お前の人形じゃない」
「俺も云った筈だ。父さんにも会わせる気はないと」

 これが自分の息子か。
 会社での駿は体育会系の爽やかさと真面目な仕事振りで、程々上々に評判がいい。
 跡継ぎとして不足はないと、そう思っていた。

 だが、何も成長していない。
 朱里に対しての執着は、本当に何も変わっていない。まるで子どものように。

「朱里の気持ちは聞いたのか。外に出たいと一度も云わなかったのか?」
「必要ない。そんなのは気の迷いだ。何が一番幸せなのかは、俺が知っている」

 武史は深く溜め息を吐く。
 何を云っても返って来る言葉は同じなのだろう。

「それは、お前の幸せだ。朱里のじゃない」
「同じ事だ」

 ゆっくりと頭を振ると、武史は寝室のドアを見た。
 姿が見えないという事は、そこにいるのは間違いないだろう。

「じゃあ、朱里の口から聞くといい。ここに居たいのかどうか」

 駿の制止が入る前にドアを開ける。
 目に飛び込んで来たのは、乱れたベッドとぐったりと意識を失ったままの朱里だった。
 しかも痩せこけた頬の片方だけが赤く腫れ上がっている。

「朱里っ」

 殴られたというのは一目瞭然だった。
 体を揺すると微かに声を漏らし、身動ぎをする。その事にほっと息を吐くと武史は薄く目を開けた朱里に微笑んで見せた。

「叔父……さん」
「ああ。迎えに来た。大丈夫か?」
「私……兄さんは?」

 朱里の視線が彷徨うように戸口に向けられ、次の瞬間その瞳が大きく見開かれる。

「やめて……!」

 振り返った武史が見たのは、背後に立った息子。
 背丈は自分と同じ程の彼が何故か自分より大きく感じた。
 それが駿が両手を大きく掲げリビングに置かれていた椅子を振り上げていた為である事に気付く前に、武史の頭部を激しい衝撃が襲う。

「叔父さん!」

 体を起こせない朱里の目の前で、武史の体が床に崩れ落ちる。
 朱里はベッドから手を伸ばすが、その手を掴んだのは武史ではなく、木製の椅子を投げ捨てた駿だった。

「朱里」
「や…っ 何で……?」

 藻掻き身を捩ろうと、駿の動きを遮る程にはならない。
 状況とはかけ離れた優しい口付けが、何度も何度も朱里の唇に与えられる。

「叔父…さん…っ」
「朱里、忘れて。俺の事だけ考えて」
「そんなの……っ」

 まるで転がっている武史など意識にも触れていないように、駿は朱里を愛撫する。
 朱里の手が武史の側に伸びればその指に自らの指を絡め、視線が向けばそれを遮るように深く口付ける。
 
「やめ…お願い……」

 漏れる言葉は聞き取られる事はない。
 囲われた腕の中で自分の意思では身動き一つ出来ず、混乱と絶望、その二つだけが朱里の意識を繋ぎとめていた。 

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