悠介は寝室から顔を出した朱里を見て瞠目し、そのまま立ち尽くしていた。
衰弱しているとは聞いていた。だが、これ程とは。
ここまで痩せ衰えるには、一体何をすれば可能なのか分からない。
「行って来い。自分でケリを付けろ」
とん、と背中を押され振り返ると、遥人が腕を組んだまま閉めた扉に寄りかかっている。
その姿を見て、動揺していた自分の頭が冷えるのを感じ、悠介は一つ頷く。
「出番ないな、遥人」
「望むところだ。行け」
苦笑しながら部屋に視線を戻すと、敏郎に圧倒されて気付いていなかったのか、駿が悠介を見て眉を顰めていた。
「佐久間、お前なんでここにいるんだ」
訝しむ声に溜め息を一つ吐くと、悠介は部屋へと上がる。
「朱里を迎えに来た。返してもらう」
「返す……? 何を云ってる」
「お前の手を離れている間、朱里は俺の所にいた。朱里を不幸にするお前にはこれ以上任せる気はない」
駿が朱里を振り返ると、朱里は悠介の姿を見たまま口を両手で押さえている。
あれ程感情を表さず胡乱な目をしていたと云うのに、大きな瞳は既に潤み初めていた。
「お前等に接点なんて……」
「そう思っていればいい。お前は朱里の全てを知っている訳じゃないし、知る必要もない」
「黙れ!」
駿の拳が勢いよく悠介の頬を捉えた。数歩よろけながらも悠介は視線を駿から外さない。
壮絶な笑みを浮かべ、一歩にじり寄る。
「昔から、お前の朱里に対する執着は異常だったよ。それでも、朱里が笑っているなら良かった。けどな」
ドコッという音と共に悠介の拳が駿の腹にめり込む。
許より昔から柔道で鍛えている駿と週に一度程度ジムに通うだけの悠介では、背は悠介の方が高いとは云え体格も筋力も違う。殴り合いになれば勝てる筈もない。それでも、一発は殴らないと気が済まなかった。
「今の朱里を見て何も感じないのか? あの頃の笑顔なんて何処にもない。消したのはお前だよ」
「お前には関係ない。朱里の幸せは俺がつくる。余計なお世話だ」
「それが間違いだって云ってるんだっ」
胸倉を掴んだ悠介の手が捻り上げられ、体が宙に浮いた。床に叩きつけられ呻く間に駿が踊りかかって来る。
「お前に何が分かる……!」
「分かるかっ」
一方的に殴られながら、互いの体の間に出来た隙間に足を捻じ込み悠介が駿を弾き飛ばした。
だが、その足を取られ体を引き摺り倒され再び取っ組み合いとなる。
馬乗りになった駿が拳を振り上げ、悠介がそれに構えようとした時、悠介は突然視界が暗くなるのを感じた。
温かな何かに覆われ、強く抱き締められる。
「……朱里」
駿の声が、呆然と呟く。
二人の間に強引に体を割り込ませ、悠介の上半身を庇うようにしがみ付く朱里に、駿の拳は止まっていた。
悠介の髪に埋まった口許からは、何時からか聞かなくなった強い声が飛び出す。
「やめて、殴らないでっ」
「朱里、何で佐久間を庇うんだ。そいつは、俺達の邪魔をしに来たんだ」
「いやぁっ」
何度も首を振りながら悠介の頭を抱え込む朱里の背に手を回した悠介が身を起こす。
駿は脱力したように床に尻をついた。
強くはっきりとした拒否。それは駿に対して朱里が行なう初めてのものだった。
それを、悠介を庇う為に行なっている。
「……大丈夫だよ、ありがとう」
「悠介さん、……悠介さんっ」
「うん、やっと逢えた。もう、大丈夫だから」
悠介は朱里の腫れた頬に触れる。そこは涙で濡れていたが、拭ってやるには痛々しかった。
「痛そうだ。冷やさなきゃ」
「悠介さんの方が痛そう……」
「そうでもないよ。大丈夫」
朱里は眉根を寄せていたが、その視線を駿に移す。
駿は呆然としたまま、二人を見ていた。
「兄さん……ごめんね」
「 朱里」
「兄さんが幸せにしなきゃいけない人は、他にいるよね? 私の事は心配しないで。自分でちゃんと幸せになれるから」
「朱里」
ずっと以前に云わなくてはいけなかった言葉。
駿が朱里という存在に固執 否、囚われてしまった時に、早く気付くべきだった。
朱里は駿に向き直り、膝をついたまま少しだけ近付く。
触れる程は近づけないのは、悠介の腕がそれを許さないからだ。
それでも、その腕を朱里は違和感なく受けいれ、それがあるからこそ微笑む事が出来る自分を感じていた。
「…兄さん、幸せになろう。別々だけど……私、幸せになりたいよ」
「俺じゃ駄目なのか」
弱い呟くような声に、朱里は悲し気に笑みをつくる。
「私ね、自分の足で歩いてやっと見付けたの。本当に欲しい人」
悠介の腕に力が込められるのを感じたが、そのまま駿を見つめる。そんな朱里から目を反らし項垂れる駿の姿は酷く小さく見えた。
「今までありがとう」
言葉を発する事が出来ずにいる駿と、微笑んで見せる朱里。そして黙ったまま朱里を腕に抱いた悠介の姿を離れて見ていた遥人が溜め息を吐く。
遠くから救急車のサイレンが聞こえだしていた。程なくパトカーも到着するだろう。
扉を開け、廊下に顔を出せば閉め出されたままの敏郎が煙草を燻らせている。
「お待たせ」
「終わったか?」
「入って来ればいいのに」
カードキーは抜いた時に床に落とされたまま廊下に放置してある。
しかし敏郎は肩を竦めるだけだった。
「あのおっさん大丈夫かね?」
遥人が思い出したように問う。
大した時間でもないし、頭を強打されているのであれば下手に揺する事すら危険に繋がる。
それでも、完全に放置されていた武史の事をやっと思い出したらしい。
「呼吸は安定してた。後は運だな」
「ひでえ」
「大丈夫に見えたから放っといたんだ。人聞きが悪いぞ」
呑気に会話する二人の耳に、エレベーターを出た何人もの足音が聞こえていた。