「朱里、また明日朝来るけど、何か必要な物はある?」
部屋に入って来た時と同じように、スーツを着てネクタイを締めた駿が振り返る。
乱れた髪も直し、一度寛いだようには見えない。
いつもの光景にいつもの科白。
また、朱里もいつも通りに首を振った。
「特にないよ」
「じゃ、明日帰りに買って来て欲しい物を考えておいて」
靴を履きながらの言葉に、朱里は躊躇いがちに首を傾けた。
「ねえ、兄さん。私が買い物に行っちゃ、駄目?」
ぼんやりと何日も過ごした。
買い物などは駿が先回りして要望を聞いて買って来た為、外に出たいという欲求もないままずっと部屋にいる。
気がつけばベランダからしか陽の光を見ていない。
思考力が戻って来ないのは、そのせいなのかもしれない。
そんな考えにさえ、何日も経ってようやく辿り着いた。
「俺が来る途中に寄って来れば、手間はないだろう? 朱里は部屋で待っていてくれればいいよ」
当然のように云われれば、自分の為に云ってくれるのを無碍にもしたくない。
何処に行きたいという訳でもないので、まあいいかなと頷いてしまうのだった。
「じゃあ、おやすみ」
少し身を屈めた駿の唇が朱里のそれに触れる。
「おやすみなさい」
笑って、見送る。
それが毎日の習慣だった。
朝、ベッドの中でぼんやりとしていると駿がスーツ姿でやって来る。
朝食の準備をしてそれを食べ終えた駿が会社に行くのを見送る。
夜は駿から電話が来たら食事を作り始め、帰って来た駿と共に過ごして夜が更けてから彼を見送る。
ただそれだけで時間が過ぎて行くのが奇妙だった。
夜、駿を見送る時の言葉で、また一日が終わる事に気付く。
それが普通ではない事は分かっているが、ではどうするのが普通なのか。
考えようとはするが、頭が働かなかった。
朱里はテーブルの上の皿を重ねて溜め息をつく。
綺麗に空になった皿と殆ど盛り付けたままの皿。
最初は無理にでも食べるように勧めた駿だったが、食べては吐くを繰り返しているうちに勧めなくなった。
悲しそうな顔をさせたくなくて数口食べた朱里だったが、結局はもどしてしまう。
駿は妊娠したのかとも思ったようだったが、朱里はそうではないと断言した。
利之と付き合っていた頃から、朱里はピルを飲んでいる。
最後に病院に行ったのは捕まる直前で、その時まとめて処方された数ヶ月分の残りを釈放後も惰性で飲み続けていた。
いくら毎日のように抱かれようが、妊娠したとは考え難い。
確かに絶対ではないが、それは次の休薬期間に生理が来なくなって初めて疑う事だろう。
ゴミ箱に皿に残った料理を捨てる。
匂いに拒否感はない。
ただ、胃が受け付けない。
自分の分は用意するのを止めようか。
そうも思うのだが作り始めれば、手が勝手に二人分の料理を作ってしまうのだ。
それを意識すると浮かぶのは自嘲の笑みしかなく、朱里はシンクでスポンジを握る手に力を込めた。
バリンと鈍い音がして、朱里は手元を見た。
瞬間何が起こったのか分からなかったが、室内の光を受ける手元のグラスや水の流れがおかしい。
ああ、割れたのか。そう考える朱里に特に感慨はない。
グラスは部屋の備品で厚手の大振りな物だったが、安物なのは見れば分かる。
厚手であろうと、安いガラス食器が割れやすい事は知っていた。
スポンジを握った拳を中に押し込んだまま力を加えた為に圧力に負けたガラスは、ざっくりと朱里の右手小指を抉っている。
「…っ」
息を飲んだ朱里だが、痛みは小さく顔を顰める程度で手を割れたグラスから引き抜く。
溢れる血でシンクは赤く染まるが、朱里は無感動に流水の下に血が湧き出る指を曝した。
殆ど無意識に傷口を開きガラスの破片が入っていないかを確認し、洗い流す。
大きく割れた為か破片は見当たらず、抉れた肉片は自分のものかと不思議に思う程別の何かがぶら下がっているようにすら見えた。
その間にも血は流れていく。
左手の親指で辛うじて繋がっている肉片を押し付けてみるが、左手まで指が血塗れになる始末だ。
朱里はのろのろと当たりを見回すと手近にあったタオルを押し当て小指を曲げる。
更に血は溢れるが、指は思う通りに曲げる事が出来た。
それを確認しただけで十分だと、朱里はタオルの上から右手をビニール袋で包み、無事な左手を使って割れたガラスをまとめ、洗い物の続きに取り掛かった。
「……これは、ひょっとして不味い、かな」
洗い物を終えてタオルを見ると、赤く染まりぐっしょりと濡れている。
先刻より強くなった痛みは小指に心臓でもあるように脈動しているが、何より傷のある小指からの震えが止まらない。
止血をまともにしなかったのが悪かったのだろうか。
血は勢いはないが、タオルを取ろうとするとまた溢れ出す。
右手を肩の高さまで上げ、小指の付け根を左手の指で挟むように圧迫してみるが、今更止血の効果があるかは分からない。
何となく、このまま放置しても構わないかと云う気もしてくる。
血が止まらないから何だと云うのか。
汚れた血がすべて流れたなら、楽になれる気がした。
深く息をつき、目を閉じる。
あとどの位血を流せばそれは叶うのだろう。
頭の中で言葉にして、朱里はふっと笑う。
楽になりたいなどと願うのは初めてだ。
何があろうと、何とかなる。起こってしまった事は自分が選んできた事の結果なのだから、後悔はしない。
それが自分なのだと思っていた。
だが今、深い後悔がある。
やり直しは利かない。傷付けた相手がどうしているか、知る事すら出来ない。
以前の前向きさに辿りつけない。
どうやって考えていたのだっただろうか。
不意に脳裡に浮かんだ顔があった。
傷ついているだろう、彼。
その表情は、朱里に何よりも安堵をもたらした微笑みを浮かべていた。
碌に考えがまとまらなくなってからも、その笑顔だけは目を閉じればすぐに浮かんでくる。
たとえ裏切ったのが自分だったとしても、その顔を忘れたくなかった。
それさえ覚えていられれば、それで満足だった。
ゆっくりと目を開けた朱里は、鞄を探る。
保険証と財布の中身を確認した。
保険は悠介に促されて国民保険に切換えを済ませている。財布の中身も救急病院に行っても何とかなるだろうくらいには入っていた。
「……ありがとう」
ぽつりと出た言葉は、自己満足だと分かっている。
礼など云われたくないだろう。それでも、彼の顔を思い出し、保険証に思い至った。
外に出るなど本気では考えもしなかったが、動き出す躊躇いは消えた。
朱里は着替える為にスーツケースを開ける。
外出する為に着替えるのは、このマンションに来て初めてだった。