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3-6

 夜間当番の整形外科はマンションからそう遠くない場所にあった。
 119に電話をして、救急車は要らないのだがと謝り倒して教えて貰ったそこに朱里は徒歩で向かい処置を受けた。

 随分と歩いていなかったせいか足の裏に痛みを感じ、釈放された日以来の感覚だと地面を踏む。
 人の足の裏というのは、甘やかすと自分の躰すら支えるのを厭うようになるらしい。
 
 あの日も足の裏に感じる腫れる様な苦痛が情けなくなって、公園で腰を下ろした事を思い出す。
 もし、足が痛まなかったら。
 公園に寄らずにそのままファミレスにでも入っていたら。
 その後の道は全く違うものになっていた。

 悠介と会う事もなく、遥人にバイトを紹介して貰う事もなく、利之や駿と再会する事もなかった。

「私がこんなヘタレになる事もなかった、かな」

 呟いたのは、夜中の住宅地を歩いているのが他に誰もいなかったからだ。
 声に出して認識したかった。

 朱里の右手小指には包帯が巻かれている。
 傷は彼女自身が思っていたよりも深かったらしく、数針縫った医者は神経を傷つけなかった事が幸運だと云った。
 消毒などの為に当分は通う事になるだろう。

 次第に強くなり始めていた傷の痛みも然る事ながら、麻酔注射の痛みは思わず声を上げてしまう程のもので、医者の苦笑を受けながらも眦に涙が浮かべてしまった。

 だが、その痛みも自分に必要なものだったのかも知れない。
 病院を出て歩き出した自分の背筋が伸びているのを感じる。
 事実、あれ程綿でも詰まったように動かなかった頭が、ゆっくりとではあるが動き出している。
 
 夏と呼ぶには早過ぎる夜風は温いが、それでも気持ちよく感じていた。
 
 来た時とは違う道を朱里は辿る。
 マンションへ向かう方向とは反対の方向へ。

 電話で聞いた病院の住所で十分に驚いてはいたが、実際に看板で確認し、更に診察券でも何度も確認した。
 駿にマンションに連れて来られたときは全く周囲など見なかったし、ここが何処なのかも聞かなかった。
 
 あと少し歩けば私鉄の駅にぶつかる。そこから更に十分も歩かずに辿り着く。
 子どもの頃から住み慣れた住宅地がそこにある筈だ。

 駿の実家に世話になり、それまで住んでいた家は手離した。
 大した金額にはならなかった筈だが、朱里はそれを自分が働き始めるまで負担を負う事になるだろう叔父に渡した。
 両親と過ごして来た家に未練は多いにあったが古い家の管理は大変だろうし、何より住み手のなくなった家が寂れて行く方が余程辛い。
 遺産も碌になく、世話をして貰う叔父への申し訳なさも立って朱里が決めた。

 進学を断念しようとした朱里に叔父が短大でもいいから行けと勧めたのは、それがあったからかもしれない。




 住宅の狭間にある小さな駐車場。その前で朱里は立ち止まり、辺りを見回す。
 記憶の中にあるものがないだけで、随分と印象が違う。
 自分の家があった場所が更地になり、大きく看板を掲げた駐車場になっている。不思議な気分だった。
 このあたりには他に駐車スペースがなく、重宝されているのだろうか。駐車場はほぼ満車だ。

 宙を見つめていると、今はない家の形が見えてくる気がする。
 朱里は苦笑すると、駐車場を眺められる縁石に腰を下ろした。
 こんな夜中では見咎める者もいない。少し位ここにいてもいいだろう。

 何かを考えなくては、と思う。
 考えなくてはならない事は山ほどある。だが、整理が出来ない。
 ここ暫く、あまりにも何も考えずに立ち止まり過ぎていた。

 考えず外出せず働かず。
 有り得ない生活だ。
 それが成り立っているのは甘やかされてそれを受け入れた自分のせい。一度何も考えずに受け入れてしまった。

 自分の性格に流されやすい部分がある事は自覚している。
 それでも、後で自分が決めたのだと納得出来る事にしか流されたくない。
 
 今の状況は、自分が逃げた結果だったとは分かっている。
 だが、このままでいい筈がない。流されたままで人らしからぬ生活。
 人を捨てる気は、まだない。

 少しだけ当たり前の自分が戻ってくる気がして朱里は小さく笑うが、その当たり前の自分というのを他人事のように感じているのがまずおかしいのだとも思う。

「……兄さんとの事、住む場所、仕事」

 ぽつりぽつりと考えるべき事を呟きながら指を折る。
 まだ思いついたが、それは言葉にはならない。
 利之との事は、いっそ他県にでも行ってしまおうかとも思う。接点をなくせば、過去にしてしまえる気がした。

 だが。

 もう一人の顔を思い浮かべ、朱里の眉根が寄る。口許は綻ぶが視線は足元に落ちたまま、自分でもどんな表情をしたいのかは分からない。
 逃げたのは自分だ。もう自分が考える資格はない。
 恐らく二度と会う事もない。

 その為にも、新しい生活を始める事が必要だと感じる。
 今あるものも全て整理して、生まれ変われたらどんなにかいいだろう。
 間違いなく、もう一度逃げるという事なのだけれど。

 朱里は溜め息をつき、ゆっくりと立ち上がる。
 もう一度だけ駐車場の空を見上げ、マンションへの道を歩き出す。

 不意に、携帯が鳴った。
 以前から使っている物は電源を落としたままスーツケースの中に入れてある。鞄に入れて来たのは駿から与えられた物で、メモリーには駿しか入っていない。

「……兄さん?」

 駿が夜中に電話を寄こす事はあまりない。
 電話の向こうの息は荒く、朱里は訝しげに眉を寄せた。

『朱里、今どこ』

 声の鋭さに驚き返事が遅れると、駿は電話の向こうでもう一度質問を重ねた。

「ちょっと怪我しちゃって、病院で縫ってもらったの。もうすぐ帰るよ?」
『どこの病院。迎えに行く』
「え…いいよ。もう帰り道だし、あと少しで着くから」
『じゃあ、マンションで待ってる』

 ぶつりと通話が切れる。
 苛立つ声は気のせいではないだろう。
 忘れ物でもして取りに戻ったら朱里がいなかったので心配した。そんな所だろうか。
 朱里は心持ち歩調を速めてマンションへと向かった。





「朱里!」
「……ただい」

 ま。という語尾は言葉に出来なかった。
 靴を脱ぐのもそこそこに、腕を強く引かれたかと思うとベッドに突き飛ばされる。
 カッターシャツにジーンズという姿の駿は、片足をベッドに乗せて朱里を押さえつけた。

「何故、こんな夜中に出た?」

 怒りも露わな表情で低く問われ、朱里は困ったようにその顔を見上げる。
 恐ろしくは感じないが、ここまで興奮される理由が分からない。

「洗い物してたら、切っちゃったの。血が止まらなくて」

 目線で包帯が巻かれた右手を見せると、深い溜め息が降ってくる。押さえつけられた腕から力が緩められた。

「……友達の誘いで外に出たから帰りに寄ったら居なくて、驚いた」
「ごめんね、心配した?」
「またいなくなったのかと思った」

 抱き起こされ、ベッドの上に座った駿に抱き締められ、朱里は返事が出来なかった。
 自分が作った傷が、ここにあるのだと。
 もう何年も前に、朱里は一度駿の前から姿を消している。

 思えば自分は同じ事を繰り返している。逃げてばかりだ。

「ごめんなさい」
     怪我って?」
「縫ってもらったから大丈夫。麻酔が効いてて、今は痛くないし。明日から毎日通院しなさいって」
「駄目だ」

 緩んでいたはずの視線が再び強くなり、言葉が遮られる。
 朱里は一瞬何を云われたのか分からずに駿を見上げた。

「もう、外に出るな」
「え? でも、消毒とか」
「診察券を寄こせ。自宅で出来る処置の方法を聞いて俺がやるから」
「兄さん?」

 呆気に取られている朱里の目の前に鞄が差し出される。ベッドに倒れこんだ拍子に床に落ちていたそれを開けられ、朱里は促されるままポケットに入っていた診察券を取り出す。
 その手の横から同じポケットに入っていた部屋のカードキーが抜かれた。

「鍵は俺が持っているもので十分」

 駿は診察券を取り、反対の手でカードキーを縦に折る。何度も折り曲げたそれは、もう鍵としての役割は果たせないだろう。 
 
「兄さん、何で……?」

 朱里の視線は執拗に折り曲げられ小さくなったそれが投げ入れられたゴミ箱から離れない。
 その視線を遮るように駿は朱里の頤に手を当て、瞳を覗き込む。

「朱里はここにいればいい、そう云ったよな? 外に出る事は許さない」
「兄さ……ん」
「守れるか?」
「……無理、よ」

 頤を掴む手に力が込められる。朱里は痛みに顔を顰めた。

「俺は優しい兄でいたいよ、朱里。だから守るって云って」

 兄妹じゃない。咄嗟に意味のない反論が頭に浮かぶが口には出さなかった。だが駿には通じたようで、はん、と嗤いが漏れる。

「そう、俺は本当の兄じゃない。お前は俺の女だろう? 生まれた時から、お前は俺のものだ」

 手が滑り首に当てられる。
 駿の目付きの鋭さに絞められるのではと朱里は息を呑んだが、その手付きは柔らかかった。

「それとも、お仕置きが必要か?」
「……そんなものっ」

 身を捩り動かした左手が駿の手を振り払うようにぶつかる。その次の瞬間部屋に大きな音が響き、朱里は頬の熱さに初めて手を上げられたのを知った。

「お前を殴るのは初めてだな」

 掌を見る駿の表情は落ち着いている。それが尚更朱里に強い衝撃を与えた。

「どこにも行かないように縛り付けてしまいたいよ」
「兄さん……」
「こんな事、させないでくれ」

 くしゃりと顔が歪み、朱里の肩に体重がかかる。
 抱き締められ、背中を大きく擦る手はまるで縋るように朱里には思えた。大きな背中に手を回せば、赤くなった頬を撫でる手は酷く優しい。

「俺の傍にいろ。勝手にどこかに行かないって云ってくれ」
「……うん」

 目を閉じた朱里には、鎖に繋がれた自分が見える気がした。
 だがその鎖を作ったのは、自分かもしれない。そう思うと頷く事しか出来なかった。

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