珍しく、将人が言葉を出す事を躊躇っている。
仕事上の事ならば、躊躇う筈がない。否、躊躇いに気付かせる事はないだろう。
「……最近、あちこちを歩き回っているそうだな?」
ああ、その話か。妙に納得する自分に悠介は苦笑する。
ここ二週間というもの、悠介は定時に近い時間で仕事を終え、あちらこちらを歩いて回っている。
朱里の前の職場やアパート、生家があった場所。ささやかな偶然を期待して朱里に関わる場所やその周りを歩く。
確率は笑える程低い事は分かっている。だが、人任せに安穏としている事は出来なかった。
「敏郎さんですか?」
意外ではない。仕事での要求は途方もなく過酷であるのに、彼らは一様に過保護なのだ。
自分もその対象なのかと、苦笑するしかない。
「助けはいるか?」
この人はどこまで知っているのだろうか。
悠介には、自分が外分もなく彼女を追っている自覚がある。
走り回らないだけマシだなどと自分に云い訳をしながら、何故突然吉岡の許へと行ったのか、それで傷は癒えたのか、笑っているのか一目でもいいから確かめたいと望んでいる。
否、本音を云えば勝手に何か考えて出て行った彼女を問い詰めたい。
自分のものにすると宣言したあの時、拒否など感じなかった。それは、一方的なものだったのか。
未練がましい、悠介自身そう思う。
断ち切る事は可能だ。だが、友人の許で彼女が幸せに笑っている事はない。その確信が悠介を動かしていた。
単に女に逃げられたと一言で終わらせられる立場だと云うのに。
首を振って返事に変えた悠介を見る将人はその返事には肩を竦め、視線をベランダの外へ転じた。
「今回はお前達のおかげで社内の整理が進んだな」
「もう決定まで進みましたか?」
話題を変えられ、多少の罪悪感に苦く笑いながら問えば、将人は首肯する。
「社長にも回したから、後は他の株主達を納得させれば実行できる」
「じゃあ、直ぐですね。今の処反発は」
親族経営の強みで、『御堂』の株の殆どは浩や将人らの家族が持っている。
他にも株主はいるが、よほどの事がない限り浩や将人の経営に口を出す事はない。
無論それは実績に裏付けされた信用があっての事だ。
しかも今回、遥人と悠介の報告を受けた浩や将人は人事再編を大きく行う事を決めている。『御堂』の膿を一気に出そうとしているのだから、裏付けやそれに対する資料はきっちりと揃えてあった。
ぐうの音も出る筈がないのだが、あるとすれば感情的な反発だろう。
もっとも、そんな物は痛くも痒くもないのだが。
「大した物はない。一応、今後も飯が食えるだけのポジションは与えるからな」
長く『御堂』で甘い汁を吸った者を放逐しても、生きてはいけないだろう。
その年齢にもよるが、退職や部署替え、子会社への出向など対処は個人別に提案してある。
要は毒にならなければいいのだ。使えないと判断して初めて放逐となる。それが自覚出来ない者に用はない。
「ま、プライベートを利用して俺や親父の処に来た奴もいるけどな」
「そりゃまた逆効果な」
「親戚付き合いの一環で聞くだけは聞いたらしいぞ、親父は」
「親父は」という強調に、さもありなんと悠介は苦笑する。
この親子は外見は似ていると云うのに、将人は威圧感が滲み出ているのに反して浩はどこかのほほんとした空気を持つ。一族にも浩の性格を甘く見積もるものは少なくない。
にこにこと笑っているせいもあるだろうが、だからと言って甘い男である筈がないのだが。
「お前と遥人が噛んでたのには気付いていたらしい。甘過ぎるとか云ってたな」
やはり矛先は自分達か。悠介はへえ、と相槌を打つ。
将人は楽し気にくつくつと笑った。
「煩いから、ここ五年のお前達の業績とそいつの入社後五年、それから最近五年の業績を並べて見せたら黙ったぞ」
「……悪趣味ですね」
「破格の親切だろう。自分がどれだけの山を引きずり倒そうと無駄な事をしてるのか教えてやったんだ」
呆れたものだ。
遥人や自分を排除したい者にとっては、見たくない事実だったろうに。
実際遥人の能力は今の、そしてこれからの『御堂』にはなくてはならない物なのは明らかであるのだが。
「何せお前達はプライベートでこき下ろすネタが見え過ぎる」
「仕事には持ち込んでませんよ…って俺もですか」
「お前のは、元木がうるさかったな。悠介にしては珍しい」
悠介の眉目が顰められる。
確かにネタを掴まれた覚えはあるが、まだ手も出していない段階だ。
その後朱里の素性でも調べ上げたのだろうか。
「……彼女に関して、何か?」
探るように細められた目に将人は頬を緩めた。
この五年、悠介に特定の相手はいない。
飄々としていて、女の視線を軽くかわす男がどうやら本気らしい。
愉快そうに云っていた敏郎の言葉はどうやら的を射ていたようだ。
「お前が大阪に行った日に会ったらしいな。素行が良くない女だと元木は云っていたが」
「……彼女が何かしたと?」
どんどん声音が低まる。
素行が良くないなどと、元木に云われる筋合いはない。
「聞きたいのか」
「聞きたいですね」
朱里が姿を消した理由に直結している。それは悠介の確信ですらある。
彼女の事だ、その時に何かあって悠介自身の不利になるとでも思ったに違いない。
「酔って乱交でもした後のようだった。元木の言葉通りなら、だが。奴の描写は生々しかったが、俺が同じものを見たら感想は多少違うし、間違いなく女を保護するな」
敢えて聞きたいのかと聞いたのは、その元木が話した朱里の様子が尋常ではなかったからだ。
真偽は分からないにしろ、無から生まれた話とも思えなかった。
「……襲われたのか」
酷く小さな呟きだった。
将人の目の前で、その顔色が見る間に失われていく。
「くそ……っ」という言葉が食いしばった歯の間から漏れたが、将人は聞こえなかった顔をした。
襲ったのは十中八九、田沼。その後元木に見られたのか。
店を辞め、自分の前から消えたのはその為か。
田沼から逃げ、更に悠介の迷惑にならないように。
それで、吉岡の許に逃げたと云うのか。
「まあ、元木はその諫言が仇になったから溜飲は下げろ。奴はしっかり親父の怒りを買ったからな」
「……好き者でしたからね」
「奴は『御堂』には残れん。……安心させてやれ」
最後の言葉で向けられた視線に、悠介は目を伏せる。
今すぐそうしてやりたい。
見つけ出し、気に病む事はないのだと言葉を尽くしてでも手許に取り戻したい。
心配を言葉にしても結局は彼女の安全を守ってやれなかった。
もう傷つけたくないというのに。
取り返しがつかないとは思いたくない。
やはり、どうしても見つけ出さなくては。
「……近いうちに紹介しますよ」
少しだけ口元を緩めた悠介に、将人は眉を上げ口を歪めておどけた表情を見せる。
「お前達は敏郎さんにばかり会わせるからな」
「お前達?」
朱里を敏郎に会わせたのは、『lavatera』を待ち合わせに使う経緯が遥人から漏れたからだ。しかも敏郎には朱里の調査で世話になったのだから、紹介するのも吝かではなかった。
お前達、と複数だったが遥人は敏郎に紹介するような相手は今まで居なかった筈だ。
訝しむように首を傾げた悠介に将人は笑いながら種明かしをする。
「和人もそうだった。俺や親父はそれが面白くない」
「和人さんって……そりゃあしょうがないでしょ。『bear's bar』が待ち合わせ場所の定番だったって聞いてますよ」
数年前に遥人が『lavatera』を買い取るまで、店は浩の物で『bear's bar』という名で敏郎が看板となって店に出ていた。
浩と若い頃に出会った敏郎は、夜の世界の事情に通じており今でもかなり顔が利く。
元はと云えばそれを利用して若い頃の将人や和人の夜遊びの目付やフォローをさせていたのは浩であり、遥人の時にそのお膳立てをしたのは将人と和人だった。
『bear's bar』を拠点に動くならば自然に恋人は敏郎と会うだろう。しかも敏郎の事だ、相手が質の悪い女でない事位確認をしていた筈だ。
「それでも面白くないものは面白くない。遥人の敏郎さんへの懐きぶりを考えると、あいつも敏郎さんに先に会わせそうだ」
否定は出来ない。確かに遥人ならば敏郎に紹介するだろう。
だがそれは、相手の安全を計る為でもある。
それだけ敏郎は信用のおける男なのだ。
「俺は既に今更みたいですけど、約束しますよ。彼女を取り戻して紹介します」
「……随分と執心してるな」
苦笑ともつかない笑いを向けられ、悠介は微笑む。
「自分がここまでしつこいとは知らなかったですよ。けど、これは譲れない範疇なので」
この手で彼女を幸せにする。
それを自分の裡で確認すると、まだまだ動けるのを感じる。
彼女の真意は会ってから確認すればいい。
今は見つけ出す事が何よりも優先すべき事だ。
将人はこれまで見たことのない悠介の表情に一度強く頷くと、それを賞するようにグラスを掲げた。