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3-9

 柔らかいバスタオルで躰を包み、朱里は俯くと溜め息をつく。
 「薄くなった」と云われ始めたのはいつからだっただろう。

 シャワーを浴びてバスルームから出た朱里は着替えながら姿見の前でそっと自分の躰に触れる。
 自分が映る鏡をみれば、浮き出した肋(あばら)に目が行く。昔から自慢出来る程の大きさではなかった胸も低くなり、腹部は平らを通り越して窪んでいるようにさえ思える。

 元々顔から痩せる方ではない筈が、いつのまにか頬に影が落ちてしまっている。
 目は落ち窪み、元から大きな瞳の下に隈が出来、気持ちの良い顔ではないと自分で思う。
 既に包帯が取れ、傷を覆うガーゼも必要としなくなった指は他の指同様節が目立つ。 
 手足も指も肉が落ちた事は否めない。

 固形物を胃が拒否するのは相変わらずだった。
 続けるようにと指示されている化膿止めの薬を飲む為にも無理にでも胃に何か入れなくては。そう思い、野菜を煮込んでスープを飲んでみると吐かずに済んだ。
 それ以来スープだけで過ごしているが、その準備をするのも日に日に億劫になってきている。

 朱里に外へ出る事を禁じた駿は、変わらず朝と夜にやって来る。
 外へ出たいと訴えた時に激昂する以外は、食事を作らなくても構わないからと朱里を腕の中に包み込み、甘く甘く時間を過ごす。
 朱里が動く事を厭うようになり始め、駿は彼女が出て行く可能性が低くなった事に満足しているようだった。

 怪我をして病院に行った日、少しだけ取り戻した筈の自分は何処へ行ってしまったのだろう。
 あの日殴られ、朱里が姿を消す事を駿が恐れている事が分かった。
 そんな恐れを抱かせた償いは出来るのだろうか。
 人形のようにこの部屋にいる事でそれが出来るのならば、このままここで朽ちてしまうのも悪くない。

 ぐったりとベッドに身を横たえ、朱里は目を閉じる。
 朝、駿を見送ってからまだ数時間しか経っていない。
 何とか体を動かしシャワーを浴びたが、それだけで体は泥に身を浸したようにぐったりとしている。
 いっそ日が暮れるまで、ぐっすりと眠ってしまいたかった。



『ピンポーン』

 この部屋で初めて聞く音に朱里の肩が揺れる。
 駿はドアチャイムを鳴らしたりはしない。
 他に部屋を訪れる者に覚えはないが、管理人かもしれない。
 ゆっくりと起き上がった朱里は玄関のドアへと向かう。
 ぼんやりと虚ろな瞳のまま、誰何せずにノブを回した。

「…朱里か?」 

 ドアを開けた先に立っていたのは壮年の男だった。
 中肉中背をスーツに包み、見開いた目で朱里を凝視している。

「…叔父さん」

 男に負けない程瞠目した朱里はドアを支えていた手を思わず引いてしまい、その拍子に支えを失った体がふらりと揺れる。咄嗟にそれを支えたのは迎えられた男だったが、彼もまた息を呑んだまま固まっている。
 互いを見たまま、どちらも言葉を続けられない。

 朱里が吉岡の家を出て以来、一度も会うことがなかった顔には皺が刻まれ、髪にも白いものが混ざり始めていた。それでもその顔は朱里が覚えている叔父の顔だった。

 駿の父親、吉岡武史は眉間に深い皺を寄せたまま朱里を部屋に支えて運ぶと、ソファに座らせる。
 部屋の中に入る前に一悶着でもあるだろうかと考えていたのだが、彼の予想は完全に外れていた。

「病気でもしてるのか…?」
「叔父さん、どうしてここに」

 首を横に振りながら問い返す朱里の頬に、ソファの前に跪いた武史の手が触れる。
 彼の記憶にある朱里の頬は、健康的な艶があり少しも痩けてなどいなかった。

「駿の様子がおかしいと相談をされたんだ。まさかとは思ったが…」
「兄さんは…?」
「今頃商談中だ。朝出勤前に後をつけて来たんだが、出直して来た」

 話す間も武史の視線は朱里の隅々までを観察するように動く。
 病気かとの問いを否定はしたが、その痩せ方は病的にしか見えない。
 しかも少女の頃はまるで砂糖菓子のような笑顔を絶やさなかったと云うのに、この生気のなさは何だ。

「病気じゃないのなら、具合でも悪いのか?」
「最近いつもこんな感じだし…具合が悪い訳じゃないの。ごめんね、久し振りなのに。…お茶淹れるから」

 微かに笑った顔に自分の知る朱里が見えて、武史は微かに息をついた。

「具合が悪くないのなら、話をしながら飯でも食おう。断食でもしているように見えるぞ」

 労わるような声音は昔と変わらず優しい。懐かしさに弱く笑みが零れるが、朱里は首を振った。
 食べる事が無理なのは分かっていたし、部屋から出ればオートロックのドアを朱里が開ける事は叶わなくなる。

「朱里、支度を。少し付き合いなさい」
「駄目、なの」

 叔父は母親の弟だ。垂れ目がちな目元に母の面影を見つけて朱里の声が揺れる。

「鍵を持ってないから。それに食欲もないし」
「鍵がないって、普段はどうしているんだ」
「…私は出掛けないから。兄さんが」

 持っている、とも出掛ける事を禁じたとも云えず、俯いた朱里の肩に手が置かれる。

「その事も聞く。そのままでいいから一緒に来なさい。鍵は管理人に開けてもらえばいいんだから」

 マンションは管理人常在だ。常に使える手ではないが、確かに頼めば開けて貰えるだろう。
 朱里は弱く頷くと、ゆっくりと立ち上がった。

 洗い晒しの髪だけを無造作にまとめ、随分前に使ったきりの鞄を持つ。
 この部屋だけで過ごすようになってから全く使われていなかった靴は、少し緩く感じる。

 ドアを開けると梅雨入りを目の前にした空気は室内に慣れきった朱里の肩に圧し掛かるように重い。
 怯んだ朱里の腕を掴む武史の手がなければ、足を進められていたかどうか。

 後で駿が気付けばまた暴力を振るわれるだろう。
 鍵を開けた管理人が伝えるかもしれない。
 それは特に怖ろしいとも思わないし、殴られたところで自分が壊れるならそれでも構わないとも思う。
 切望する程の外へ出たいと云う気持ちが萎えてしまった今、出たくないと云う気持ちを持つ事も出来ない。

 それでも、朱里は武史に腕を引かれたままマンションを出た。

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