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4-2

 夕食はいつも通り済ませた。就寝前の検温も終わった。
 消灯の見回りの足音が消え、朱里はそっとベッドを抜け出す。
 布団に潜り込んでいると見えるように簡単に細工はしたが、通用するかは分からない。
 だが、まだ外出の許可は下りないので仕方が無い。

 勝手だとは思ったが、今日抜け出す事に迷いはない。
 深夜か早朝になればまた彼は来るだろう。
 その前に、自分の気持ちを伝えたかった。

 そんな一心でタクシーに乗り込んでしまったが、いざ扉を前にするとどうしたものかと立ち止まってしまう。
 鍵はある。開けて入って行くべきか、ドアチャイムを押すべきか。
 マンションの入り口は躊躇っている内に抜けてしまった。

「ど……どうしよう」

 よく考えれば、将人との会話の内容は将人から見た話や憶測だった。
 勢いで来てしまったが、先走ってしまった気がしなくもない。

 やっぱり病院に戻ろうか。
 悠介が今日もまた病室に現れるとも限らない。
 そんな弱気が掠めるが、それでも前にも後ろにも足が動かない。

「意気地なさ過ぎ……」

 ゴンと小さく音を立てて額が扉に当たる。
 最後にこのドアを開けた日は必死で何も考えていなかったが、当たり前のようにこのドアを開けていた日が懐かしい。
 はあ、と溜め息を吐いて擦るように触ったドアが突然動いた。

「きゃ……っ」

 寄りかかっていたので、開いたドアに押されるように姿勢が後退る。
 目を見開いてドアを見つめる朱里の前にひょっこりと現れたのは、青碧色の瞳だった。
 玄関から身を乗り出すように顔を出した遥人は、朱里を見るとふっと頬を緩める。
 まるで来るのが分かっていたように。

「よ、やっと来たな」
「……遥人さん」

 大きく扉を開けると遥人はにやりと笑い、そのまま踵を返してしまった。取り残された朱里はどうしていいのか分からないまま立ち竦んでいる。

「悠介ー、俺帰るわ」
「お前……押しかけて来て何勝手云ってるんだよ」
「飯食わせたろ、やっぱり仕事なんて家でするもんじゃねえし」

 リビングから聞こえて来る声に朱里の鼓動が高まる。
 玄関の匂いも、奥からの空気も、出て行った時と変わらず悠介を感じる。

「明日は昼からでいいよ、お前」
「はあ? 何云って……」

 リビングから遥人を追うように出て来た悠介が、玄関に佇む朱里を見て動きを止める。その肩を遥人が叩いた。

「連絡は任せておけよ」
「…お人好しめ」

 悠介の言葉にふっと軽く笑った遥人は擦れ違い様朱里の頭に手を置いて、そのまま出て行った。
 その後ろ姿を見ていた朱里は、視線を感じて振り返る。
 視線の先に、悠介が立っていた。

         お帰り」

 ただいま。そう云っていいのか戸惑う朱里の足元にスリッパが置かれ、悠介の目が入る事を促す。
 その柔らかい視線に誘われるままに足を動かし、朱里はリビングへと入った。
 テーブルには散乱した書類の束。
 どうやら本当に仕事をしていたらしい。

「仕事……邪魔しちゃった?」
「いや?」

 悠介はくすりと笑うと朱里の手に握られたままの鍵を見る。手からはみ出していたキーホルダーには最初から気付いていた。
 それは今遥人が持っている筈の物だ。
 今日は何やら玄関の方を時折気にしていると思っていたが、腰を上げたと思えばこれだ。
 最初から朱里が来るまでの時間潰しのつもりで書類を持ってきたのだろう。

「最近遥人が昇進してね。仕事が増えたからちょっとその打ち合わせをしていただけ。気にしなくてもいい」
「昇進?」
「ああ。遥人の位置付けも確かなものになった。もうちょっとやそっとじゃ揺るがない……俺もね」

 とん、と肩が押されソファに朱里が腰を落とすとその前に膝を付く。正面から見据えられ、視線を反らす事が出来ずに朱里は悠介を見ていた。

「……俺はね、怒ってるよ。田沼の事も吉岡の事も、一番苦しかったのは朱里だろう。でも、俺をそれで捨てたって事は、俺では頼りにならないって事だ」
「違う」
「違わない。これからは、誰にも何も云わせない自信があるけれど、あの時はまだ只の若造扱いも甘んじて受けていたからね。……不安にさせたと思ってる」

 自嘲するような表情に朱里は首を振る。
 勝手にパニックを起こして逃げ出したのは自分だ。悠介に非などない。

「それでも、朱里が吉岡の所へ戻ったってのは、かなり効いた。嫉妬で気が狂うかと思ったよ」
     悠介さんと、兄さんって…」
「まだ気付いてなかった? 高校の頃からの親友、そう云えば思い出す?」
「あ……」
「あの頃、吉岡は絶対に他の連中を朱里に接触させないようにしていたからね。それでも俺は何度も会ってるんだけど」

 会うだけで視界には入ってなかったからな、と苦笑する悠介を前に朱里は口を微かに開いた。

「……佐久間、さんって」
「そ。覚えててくれた?」
「だって、雰囲気全然違う」
「まあ、髪の色を抜いたりパーマかけたり、それなりに俺も若かったから」

 実はピアスの穴もあるんだよ、と耳朶に残る微かな跡を見せられ朱里の口許が緩む。その口の端に悠介の指が触れた。
 駿に殴られた痕はもう消えていたが、その跡をなぞるように。

「守りたいと本気で思ったよ。でも、それは吉岡のように閉じ込めてしまいたいという気持ちに似すぎていて、怒りより恐怖が先に立った」
「あなたは、しない」

 悠介の指に触れる朱里を見る目は辛そうに細められている。
 それが酷く胸に苦しくて、朱里はその目を覗き込んだ。
 今まで沢山甘やかされてきた。それなのに、出て行ったのは自分だ。だからこれは自分から云わなくてはならない事だと分かっている。

「私は勝手に出て行った。自分の足で。兄さんにも云ったの聞いてたでしょ、私は自分の足で歩いて見付けたって。…自分で帰りたい場所も決める。どこで幸せになるかも」
「帰りたい……?」
「帰る事が許されるか、怖くて……今も泣きそう」

 微笑み綴る声は震えている。

「傷つけて、苦しめて、もう会えないと思ってたの。     帰って来ても、いい?」

 見つめる瞳が近付いてくる。溢れ出る涙が邪魔だった。
 あれ程忘れたくなかった顔が目の前にあるというのに、はっきりと見る事が出来ない。

「……ごめんなさい」

 呟いた息と混じる吐息。重なる唇や触れ合う顔の感触に瞼を伏せる。
 まるで朱里の存在を確かめるように、悠介は朱里の顔や髪に触れながら角度を変えては唇を合わせる。
 ふと唇が遠退き、目を開ければじっと見つめられていて、視線を合わせる朱里に向けられた微笑は動揺を誘う程に柔らかい。
 その笑みに、待っていてくれたのだと胸が熱くなる。

     吉岡に云ったよね、見付けたって」
「え? うん」
 
 反射的に頷いたが、悠介の瞳が柔らかく笑んでいるだけではないのに気付いて朱里は視線を思わず逸らす。熱の灯った瞳は、朱里を捕らえようとしている。艶のある笑みがそう思わせた。

「何を見付けた?」
「……聞いてたくせに」
「いいから、ほら」

 強引に視線を合わせられ、朱里の眦が拭われる。
 もう涙など止まってしまった。ただ、熱に浮かされるように視線が悠介の双眸を彷徨う。

「本当に……欲しい人」
「俺も見付けてる」

 再び唇が重なる。先刻と違ったのはその熱さ。
 悠介の舌が朱里の唇をなぞり、その隙間から入り込むなり朱里の舌を弄るように動き回る。口内から朱里を確かめるように、触れぬ場所などないように。
 朱里が苦し気に喘ぎ声を漏らしても、飲み下せない唾液が顎を伝っても、まるで喰らい尽くすまで止まらないかのように貪り続ける。

 それは、朱里の喘ぎが艶を増した頃ようやく勢いを潜めた。
 荒い息が二人の間で混ざり、視線は絡み合ったまま離れなかった          

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