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4-3

「……ごめん、ちょっとクールダウンさせて」

 乗り上げた体をソファに落ち着け、朱里を抱き込むようにその腕に抱えて肩に顔を埋めた悠介が呟く。
 手が届いた途端に全てを奪おうとする自分に歯止めを掛ける。
 未だ体調が戻りきっていない朱里を相手に無茶はしたくなかった。

「悠介さん……?」
「少し、このままでいて」

 朱里は悠介の背に手を回し、俯くと触れる髪に頬を預ける。 
 触れ合う温かさが、心地よかった。

     悠介さん、最初から私の事分かってたの?」

 緩やかに流れる沈黙を破ったのは朱里だった。
 肩口に寄りかかったまま、顔を向けた悠介がくすりと笑う。

「ああ、すごく驚いた」
「だからあんな無茶な事云い出したんだ?」

 見も知らぬ女に留守番をしろと云い出した、とんでもない出会いだと思っていた。
 そう云うと悠介は顔を上げ、くつくつと笑い出す。

「咄嗟に考えたんだよ。ちょっと強引だとは思ったけどね」
「かなり、強引だった」

 顔を顰めた朱里の頬に悠介が触れる。

「昔の朱里はいつも笑ってた。見てるだけで幸せになれるくらい、飛び切りだった。なのに酷い顔をしてたからね、とてもじゃないけどあのまま見過ごせなかったんだ」
「……ひょっとして、隠し事ってそれ?」

 朱里が飛び出す前に悠介が云っていた、隠し事。もう聞く事はないと思っていたのだが、その事だったのだろうかと朱里は小首を傾げる。それを受けた悠介は困ったように眉を寄せる。一言で云えるものではないからすぐに話せなかったのだ、と。

「それもあるけど。……吉岡が朱里を探している事もあったから、俺が吉岡の友人だと話す事に抵抗があった。俺は昔の二人を知ってるからね。今更蒸し返す事もないんじゃないかとか、色々考えた」

 朱里の表情が少し陰るのを見て、悠介は彼女の額に自分のそれを当て、目を閉じる。

「あの頃の朱里の笑顔、好きだったよ。見るだけで癒されて、マシュマロとか砂糖菓子とか柔らかくて甘いお菓子みたいで。……独占してる吉岡が羨ましかった」
「マシュマロ……」

 複雑そうに呟いた朱里だったが、悠介の言葉は遮らない。
 悠介の考えている事を全て聞きたかった。

「朱里が昔のように笑ってくれるなら、それだけで良いと思ってた。けど、一緒にいる間にそれだけじゃ満足出来なくなった。」

 照れ隠しのように苦笑いする悠介を見て、朱里は軽くなった空気に乗じて口を尖らせる。

「……マシュマロみたいなのが良かった?」
「まあ、美味そうだったけど」
「こんなにガリガリになっちゃったし」

 高校生までの朱里は確かにふっくらとしていた。太っていた訳ではなかったが、健康な女子高生らしく張りがあった。
 そこに引っ掛かるか、と悠介は喉の奥から込み上げる笑いを噛み殺す。

「すぐに戻るよ、食事さえきちんと取れば。それに、痩せたって朱里は朱里だ。笑顔だって変わらない」
「……あ」

 不意に朱里が声を漏らす。
 唐突に思い出した。昼間将人に最後に云われた言葉。さっぱり分からなかった言葉が、今解けた。

「何?」
     今日、将人さんに」
「将人さん?」

 訝しむ悠介の声に、将人が悠介は知らないと云っていた事を思い出すが口止めもされなかった。まあいいか、と朱里は続ける。

「悠介さんが嵌まったものを見た気がするって云われて…その時は分からなかったんだけど」

 自分が笑った後で変な顔をしていた。そんな事まで悠介は話しているのかと急に羞恥で赤くなる朱里に、悠介はがっくりと肩を落とした。

「……何やってんだ、あの人」
「鍵をね、持って来てくれたの」
     遥人とグルか」
「や、でも、それで私、ここに自分で来ようと思ったんだし」

 怒っているのかと言葉を尽くそうとした朱里に、悠介は苦笑する。
 
「俺にとって大事な人だよ、将人さんは。朱里を紹介する約束もしてる。…待ち切れなかったって所がまたあの人らしい」
「フライングしたくなったって云ってたけど」
「ったく、正直にも程があるな」

 大方、遥人や敏郎がやけに朱里に肩入れするので興味が抑え切れなかったんだろう。どっしりと構えているようでいて、結局は自分で動き回るのが好きなのだ。そうやってあの地位まで昇った彼らしい。
 そして朱里に鍵を渡したという事は、どうやら気に入ったという事だろう。
 これは、朱里の体調が戻ったら早々に会わせなければ煩いに違いない。そう考えると何だか面映い。

「……これで、俺の隠し事はお終い。もう嘘も隠し事もなしだよ」
「うん」
「じゃあ、今度は朱里の番だ」

 思いがけない問い返しに朱里の体が反るが、悠介の腕はしっかりと支えている。

「何か引っ掛かってる。そんな顔してる」

 唇を重ねても、僅かに体は強張ったままだった。朱里は気付かれていないと思っていたのだろうが、最初から疑って見ていれば分かりやすいものだ。
 田沼に良いように扱われ、次いで吉岡に囲われ、どんな扱いを受けていたのかまでは問う事は出来ない。
 触れずにいてやった方がいいのかもしれない。だがそれではまるで腫れ物のようになってしまう。
 抱かれていたのが筒抜けだと朱里にも分かっている以上、いっそ吐き出せる部分は吐き出させて共有してしまった方が溝にならない。そう思っての問いだった。

「……引っ掛かってなんて」
「嘘はなし。俺には全く関係ない事なら別だけど」

 顔を見ないほうが話し易いかと朱里の体を引き寄せる。身を預け、悠介の鎖骨に額を付けた朱里は云い淀みながら口を開いた。

     私、もしかしたら、自分に、ね」
「ん?」
          

 朱里の耳が赤い。一体何を云おうとしているのか予測がつかずに悠介が見守っていると、朱里は大きく息を吸ったかと思うと顔を上げた。

「悠介さんも、薬とか、玩具とか、使いたい、人?」
「………いや?」

 葛藤の挙句に出た言葉に悠介は間がありながらも平然と答える。
 朱里の経緯を考えれば、笑っていい問いではない。傷を塞ぐ機会だと考えるべきだと、悠介には思えた。
 そしてその問いで理解してしまった。駿もまた、朱里をそう扱ったのだろうと。

「もしかして、私にそうさせる何かがあるのかなって。……変な事云ってごめんね」

 そこで何故自分の所為にする。悠介は吐きかけた溜め息を封じ込めて朱里の顔を覗き込んだ。

「使われて、朱里はどう受け取ってきた?」
「……そういう性癖なら仕方がない、って。言い訳だけど」
「性癖は千差万別、色んな奴がいるのは確かだけどね。朱里が我慢した段階でアウト。男のエゴでしかないと俺は思うね」
「だって……それがなきゃとか、痛そうとか云われたら、拒めないよ」

 小声は悲鳴のようにも聞こえ、既にテンパリ過ぎて自分で何を云っているのか分かっているかどうか。
 まあ、こんな赤裸々な話を自分にする気もなかったんだろうと思うと悠介にとっては愛しい以外の何ものでもない。

「それがなきゃなんてそもそも莫迦にしてるし、痛そうって事は体の相性が悪いって事。大体、そんな物に気が向くって事は自分だけじゃ朱里を満足させられないって証拠だ。……ってのはかなりな極論だけどね」
「じゃあ、使わない?」

 見上げられてぞくりと腰が疼く。
 まったく、分かっているのだろうか。こんな話題でそんな顔をする意味を。

「例えばお互いに慣れすぎて、朱里が刺激が欲しいって云ったら考えるけど?」
「い、云わないっ」
「あと、俺のじゃ物足りないとか」
「わ、わかんないっ」

 ぶっと堪らず悠介が吹き出す。本当に、何を云っているのか自覚はないらしい。
 久々に止まらない笑いに、悠介は腹筋を震わせた。

「悠介さんっ」
「くく……ごめ、いや、久し振りで止まんない。あはははは」
「ひどっ、だから云いたくなかったのにっ」
「ちょっと待って、くくく、今、止めるからっ」
「もういいっ」

 頬を膨らませて体を引き剥がすと向かい側のソファへと移動してしまう朱里に、悠介は息を飲み込むように無理矢理笑いを止める。ここで拗ねられては堪らない。そうはさせるものかと思い、朱里の後を追う。

「朱里?」
「……知らない」
「結構喋ってたけど、疲れてない?」
「平気。最近体調もいいの。まだ前みたいに歩けないけど、座ってれば大丈夫」

 顔を背けたままの朱里を背中から抱き込むと、悠介は耳元に口を寄せる。
 気が昂っていて疲れた事に気付いていないのか、本当に平気なのか。顔色は悪くないが、どちらかなのは本人にも分かっていないのだろう。そうは思っても、既に悠介は後に退く気がない。
 ここまで話されて、そのまま帰せと云うほうが無理だ。

「まったく、無理をさせたくないから我慢してるのに」
「……悠介さん?」

 突然浮上した視界に朱里は声を上げた。しかし悠介はそれに構わず朱里を抱き上げたまま歩き始める。
 リビングを出て二つ目のドア、そこは朱里が足を踏み入れた事のない部屋だった。

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