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12.

 道篤くんは、いつ発つのか結局教えてくれなかった。
 思えば既に職場は辞めていたんだろう。
 私が仕事から帰って来ると部屋で待っていて、仕事に行く時もいってらっしゃいとキスをくれた。

 まるで時間を惜しむかのように一緒にいて、他愛ない話をしてご飯を食べて、そして抱き合った。
 ずっと私の部屋で過ごしたのは、荷造りを見せたくなかったんだろうか。
 いつまでも続く時間じゃないと知っているのに、目隠しをしているみたいに。
 
 だから、突然いなくなっても驚かない。
 そう決めていた。





 準夜勤は深夜一時に仕事が終わる。
 電車なんかある筈もなく、タクシーに乗って帰宅する。
 いつもなら見上げれば窓の明かりが見えるのに、私の部屋もその上の窓も真っ暗だった。

 つきんと走る胸の痛みを無視してマンションに入る。
 集合ポストを覗くと、"shioji"の上の"matsuda"の文字が無くなっていた。

 エレベーターのボタンを殴りつけるようにして部屋に向かう。
 もうこれ以上確かめなくても、結果は同じだと知っている。
 道篤くんは「来週」と云ったけれど、その週はあと何日も残っていない。
 きっとぎりぎりまで伸ばして一緒にいてくれたのだろう。

 部屋に入り、ドアに付いたポストを開けると剥き出しの鍵が入っている。
 私が持っていた上の部屋の鍵はとっくに返していた。
 もう互いの部屋に入る事はなくなったのだと思ったら、ぽっかりと何かが抜けてしまったように感情が薄くなるのを感じた。

「書き置きくらいしてけ、ばぁか…」

 部屋は道篤くんの痕跡なんか微塵もなく、昨日の昼間一緒に食べたグラタンの皿も食器棚の中に行儀よく収まっている。
 クローゼットの中にしまってある、道篤くん用のカゴに入っていた筈の予備の着替えや下着もないし、昨日の朝読んでいた雑誌も見当たらない。

「徹底しすぎ……」

 フラフラと洗面所やバスルームを覗くけれど、やはり何もなくて。
 きっといつか幻だったのかもしれない、なんて現実逃避を始めるんだろうなと思ったら何故か笑えた。

 だって。
 あれ程縋るような目をしていた癖に、こんなにも潔い。
 最後まで待っていてなんて一言も云わなかったけれど、きっとけじめを付けたら彼は戻って来る。
 けれどそれはいつまでに、なんて云えるような類のものじゃない。
 だから私が流されるようにいつまでも待つ事をしないように、こんな風に綺麗にいなくなった。

「待つなんて云ってないっての…」

 感情の入らない私の独り言を受けるのは冷蔵庫の扉。
 常備してあるビールを出して背中を向けたけれど、思い直してグラスに氷を縁まで入れて、日本酒を景気よく注ぎ込んだ。
 ビール如きじゃとても酔えない。
 冷静に考えるなんてしたくない。

 田舎に帰った彼がいつまでここでの事をリアルに思っていられるだろう。
 跡を継ぐ、見合いをする、恋人が出来る。
 いくらでも身近なものが大事になる可能性は思い付ける。
 そんな事を考えない為にも、ビールと日本酒を一気に飲んでベッドに潜り込む。

「寝る寝る寝る」

 呪文のように唱えて枕に顔を埋めたら、突然湧き出すように涙が溢れ出す。
 見つけてしまった。
 唯一の彼の痕跡        

「……ばかぁ」

 ばふっと枕を叩くと更に彼の匂いを強く感じる。
 ひっくとしゃくり上げながら、枕を退かしてシーツに目を押し付ける。
 そこにも同じ匂いがあって。

 ……酷い男。
 使えば匂いなんて簡単に消えてしまう。それに気付けばもうこの枕は使えない。

 涙は止まらないけれど、もう少しの間だけこの匂いに包まれて眠りたいと思うのは未練だろうか。
 どうか幸せになって。私も幸せになりたかった…一緒に。
 二つの気持ちが一つになるまで、もう少しの間あの人を想っていてもいいだろうか。

 身動ぎする度に柔らかな匂いに包まれて、私は一人で眠りに落ちた。

















「おっと、失礼」

 集合ポストで手がぶつかりそうになり、驚いて振り返ると高い位置から声が降って来た。
 大きな体はなかなか逞しくて、ちょっとワイルドなおにーさん。……っつっても、四十代くらいだろうか。

 場所を譲ると彼はポストを開けて郵便物を出し、少し笑ってエレベーターへと歩いて行った。
 私は開けかけていたポストの中を覗いてダイレクトメールを出しながら、溜め息を吐く。

 最近、上の階から時々物音がする。
 滅多に聞こえないそれは、週に一度、もしかしたら二週に一度くらいの間隔で。
 ベランダを開ける音に飛び起きた事もある。
 だけど懐かしい床を叩く音は一度も聞こえた事がなくて。

 住人を見るまで、どうしても望みを捨てられなかったのに。
 今の人が開けていたポストは間違いなく私の上の物で、彼が新しい住人なんだろうという事は疑いようもない。

「……まあ、仕方がないか」

 溜め息をもう一つ吐いて歩き始める。
 一年も経つとさすがにエレベーターの表示は穏やかに見られる。
 あの直後は乗ってる間中、自分の階の表示だけをひたすら見ていた。

 彼がよく私を待っていたエレベーターホールを抜けて部屋のドアを開ける。

「ただいま」

 玄関にはコルクボードが置いてあり、そこには一枚の写真が貼ってある。
 こんもりと綿帽子を被った庭木を二階から撮った写真。

 去年の十二月二十五日に届いたそれにはメッセージも何もなくて、でも癖のない綺麗な字が誰のものかなんて分からない筈がなかった。

 イブは前夜祭、本番は二十五日。
 そう云った彼からのクリスマス・プレゼントなのだろう。

 どんな意図が含まれているのかなんて知らない。
 ただ、これはきっと彼の部屋から見える風景。
 そう思うと少しだけ気持ちが穏やかになる気がした。

 いつか、彼が忘れた頃に訪ねてみてもいいかもしれない。
 きっとその頃にはあの半年間は、いい思い出になっている。

 だから、今は無理に忘れる事をやめた。

 自然に忘れるまで未練たらたら写真に向かって「いってきます」「ただいま」と云い続け、クリスマスには出会った公園で同じように酒を飲む。

 それすらも笑い話になるように。

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